【試し読み】直木賞作家・荻原浩待望の最新長篇『笑う森』⑤
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神森で5歳のASD児・真人が行方不明になった。1週間後無事に保護されるが「クマさんが助けてくれた」と語るのみで全容を把握できず、真人の母でシングルマザーの岬はバッシングに晒されている。真人の叔父・冬也の懸命な調査で4人の男女と一緒にいたことは判明するが、空白の時間は完全に埋まらない――。
5月30日に発売された直木賞作家・荻原浩さん2年振りの長篇小説『笑う森』は、罪と後悔の人生を光に変える、希望と号泣の物語です。誰もが抱く拭えない過去を浄化に導く本作の冒頭部分を、5日連続で特別公開いたします。
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死んだ時の一也は胎児の形にまるまっていたのだが、時間が経つにつれて硬くなっていった。片足の膝から下はいくら折り曲げようとしても、曲がんなくて、いまはコサックダンサーみたいに中から布団袋を蹴り上げている。コサックダンスを踊る片足を台車の前方に突き出して、さらに森の奥をめざす。
殺すつもりはなかったのだ。心の中で呟いた。念仏みたいに何度も。殺すつもりはなかった。ほんとうに。一也があんなことを言い出すからだ。
昨日の、いやもう午前零時を回ってしまったから、一昨日――土曜の夜のことだ。場所は美那の住む1DK。美那はキッチンにいて、インスタしか見ない女だと思われたくなくてNHKの神森のドキュメンタリーをつけ流していた。一也はそれに退屈して、男一人に女たちが群がる恋愛リアリティにチャンネルを変えた。
「もう終わりにしねえ?」
いきなり背中に声が飛んできた。美那は振り返って聞き直した。
「何を?」聞き間違えだと思って。
ああ、そういうことか。料理なんてろくにしたことがないのに、そろそろプロポーズアピールをしなければ、と慣れたふりをして作りはじめた夕食が、いっこうにできあがらないのに苛立ったのか。「料理? 食事は後でいいってこと?」
もう。ほんとにがっつくんだから。
「じゃあ、お風呂にする? それともぉ――」腰に手をあててK-POPのコみたいにお尻を振ってみせた。
「あ、た、し」
「だから、そういうのだよ」
はい?
「どゆこと」
「おまえとはおしまいにしようと思う」
は?
何を言っているんだろう、こいつは。おしまいに、しようと、思う。はてな。それはあんたが思うことなのか。あんたが思えばそれで済む問題か? 違うだろ。
「なにバカなこと言ってんの。私の地元の教会で結婚式を挙げるんじゃなかったの」
「そんなこと一度も言ったことねえし」
言った。地元の教会は確かに私一人が考えたことだけど。私にそう思わせる言動をくり返してきたじゃないか。
一也が立ち上がり、美那の前に立つ。「結婚?」唇の片側を歪めて、そのすき間から言葉を押し出した。「おまえと?」
顎を上げて、美那を見下ろした目を半開きにして。人を怒らせることにかけては天才的な男だ。
「おまえ、そういうキャラじゃないだろ」
「なにそれ?」