笑う森

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 カートを押しながら、自首。埋める。自首。埋める。と頭の中に振り子を抱えてフロアを夢遊病みたいにふらふら彷徨い、ペット売り場でしばらく時間をつぶし、豆柴の天使のような瞳を眺めているうちに、また警察へ出頭することを考えはじめ、いちばん近い警察署がどこにあるのかスマホで検索した。遠かったらやめるつもりが、案外近かった。
 やっぱり警察に行こう。私にうまくやれるはずがない。殺すつもりなんかなかった、事故だった、と言えば、刑が軽くなるかもしれない。とりあえずカートの商品を元に戻さなくては、と布団袋の売り場へ戻る途中で、懐中電灯が目に留まったのだった。
 そうだよ、何か足りないと思っていた。山の中に死体を埋めに行くとしたら、夜、暗くなって人目につかなくなってからだ。懐中電灯はひつ。欠けていたピースがぴったり嵌まった気がした。懐中電灯を握った瞬間、夜の森が頭に浮かび、他人事のように思えていた死体を埋めて隠すという行為が、リアルに感じられるようになった。実現可能なリアルに。うん、やれるかもしれない。
 気づいたら懐中電灯をカートに入れ、必要な乾電池の種類と個数を冷静に確かめて手にとっていた。レジへ直行する。迷っていた心が吹っ切れた。
 私にはまだ長い人生があるのだ。なかったことにしよう。この秘密を墓場まで持っていこう。一也の車にすべてを積みこんでマンションに戻り、暗くなるのを待って、出発した。
 遺棄場所をここにしたのは、昨日たまたまつけたテレビで、「神森」というこの場所が紹介されていたからだ。迷い込んだら抜け出せなくなると噂される森。薄気味悪いBGMとともに、そんなナレーションが入っていた。ロケーションもよかった。美那のマンションからは車で三、四時間で、苦手な高速に乗らなくても行けそうだった。
 懐中電灯の光が闇を丸く切り取る。森の暴力的な暗さに比べると、頼りない明るさだった。
 さらに奥へと進む。片手に懐中電灯を握りつつ、台車を押すのはかなり難易度が高い。懐中電灯を口にくわえた。その直径で一也のことを思い出してしまった。
 むりやり口にくわえさせる男だった。ちゃんと洗ってないから臭いのに、私が喜んでいると錯覚する―そういう男だった。もはや過去形だ。自分が大好きで自分のことばかり考えている。それでも我慢していたのは、いままでスカばかり引いてきた男遍歴に今度こそ終止符を打ちたかったからだ。暴力を振るわないだけまし、働かずにお金をせびってこないだけありがたい、哀しくもそう考えて。多少の性格の悪さは私が直してみせる、なんて思って。
 一也のとりえは条件面だった。一緒に歩くとほかの女がちら見してくる顔だちで、身長も、背の高い美那が7センチヒールを履いても全然オッケー。実家は美那も知っている有名な和菓子屋チェーンだ。いまの冴えないサラリーマンは仮の姿。いつかは店を継ぐ。「だから営業成績もあがんねーのよ」と何が自慢だか、本人もそう言っていた。
 人に羨ましがられる結婚がしたかった。中学時代に美那をイジメていた女たちを見返してやりたかった。盛大になるはずの二次会に呼んでみたかった。
 ああっと、よけいなことを考えていたから、また脱輪。いけないいけない。全集中。木の根のあいだのボコから車輪を引き上げようとしたら、台車が横倒しになって、布団袋がころげ落ちた。
 洗濯用ロープやビニール紐でぐるぐる巻きにした布団袋を抱きかかえて、持ち上げることはできないから、押し入れにむりやり突っ込むみたいに押して、押して、肩や背中も使って何度も押して、台車に戻す。布ごしでも体のどこなのかがわかった。さっきバスケットボールみたいに両手でかかえたのは、頭だ。冷たかった。野菜室に放り込みっぱなしのカボチャみたいだった。

(つづく)
※次回の更新は、6月3日(月)の予定です。


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