笑う森

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 真人がいなくなった日のことは思い出したくないのに、思い出さずにはいられない。あの時ああしていれば、という数々の悔恨とともに。
 発端は前日の土曜の夜。テレビを見ていた真人が突然、岬の手を取った。そして画面に触れさせたのだ。
「どうしたの」
 アニメが終わったあとも見続けていた『もうひとつの樹海』というタイトルのドキュメンタリー番組だった。
「き」
 大きな木が映っていた。不思議な木だ。ひとつの根もとから何本もの別の樹木が生えている。
 合体樹。ナレーターはそう説明していた。撮影場所は神森という原生林で、そこにはこうした合体樹がいくつも存在している
 真人は定型発達の子どもと違って、ひとつのことだけに熱中しがちだ。「樹木」もそのひとつ。木が好きなのだ。絵本にはあまり興味を示さないが、大木たいぼくが出てくる本だけは別。
「この木を見に行きたいの?」
 真人から返事がないのはいつものこと。でも目を見れば答えはわかる。視線は画面に釘付けだった。
 神森について調べてみた。岬たちが住む街からは車で三時間ぐらい。朝早く出れば、日帰りできる。翌日の日曜日に出かけた。
 渋滞に巻きこまれて、着いたのは昼過ぎになってしまった。神森は八岐山やまたやまという山の麓に広がった原生林のことで、あまり観光地化されていない場所だった。ようやく探し当てた遊歩道の入口に駐車場はあったが、車も人の姿もなかった。
 合体樹の場所もわからないまま遊歩道を歩く。真人は迷子になりやすいから、片時も目を離せない。トイレも一緒に入る。以前は子ども用迷子紐ハーネスを使っていたのだが、事情を知らない人には変な目で見られてしまう。「虐待だ」とののしられたことも一回や二回じゃない。だから最近は、見守りGPSを持たせている。
 それなのに。あんなに注意をしていたのに。
 一時間ほど歩いて合体樹らしき大木を見つけた。テレビで紹介されていたものより小さな別の木だったが、真人はぽかんと口を開けてずっと見上げていた。写真に残したら喜ぶだろう、そう思って、スマホを手にした。
 撮ったのは一枚だけだ。言いわけになるが、時間にしてほんの五、六秒。
「あったね、真人、ガッタイの木」
 振り返ったら、もう真人の姿はなかった。

(つづく)
※次回の更新は、6月1日(土)の予定です。

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