【試し読み】直木賞作家・荻原浩待望の最新長篇『笑う森』②

直木賞作家・荻原浩最新長篇『笑う森』刊行記念特集

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神森で5歳のASD児・真人が行方不明になった。1週間後無事に保護されるが「クマさんが助けてくれた」と語るのみで全容を把握できず、真人の母でシングルマザーの岬はバッシングに晒されている。真人の叔父・冬也の懸命な調査で4人の男女と一緒にいたことは判明するが、空白の時間は完全に埋まらない―。
5月30日に発売された直木賞作家・荻原浩さん2年振りの長篇小説『笑う森』は、罪と後悔の人生を光に変える、希望と号泣の物語です。誰もが抱く拭えない過去を浄化に導く本作の冒頭部分を、5日連続で特別公開いたします。

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装画 都築まゆ美
装画 都築まゆ美

 眉の下までの前髪。大きな丸い目。手配写真の子どもだ。
「真人くんだね」
 手を差しのべたら、尻もちの姿勢のまま木の中に体を埋めこむように後ずさりした。まるで小動物だ。
「怖がらなくていいよ。助けにきたんだ」
 なおさら後ずさりされてしまった。
「お腹すいてるだろ。喉は渇いてない?」
 リュックをひっかき回して、弁当と一緒に持ってきたバナナを取り出す。右手にバナナ、左手に水筒を握って男の子の前に突き出した。
 手を出してくれない。野生動物の餌付けをするように、空洞のふちにバナナを置くと、驚くほどの素早さでつかみ取って、皮ごとかぶりついた。
 見たところ怪我はなく、やつれているようにも見えない。消防団の名前入りの防寒ジャンパーを脱いで男の子の体をくるんだ。ジャンパーを振りほどこうとしたのは一瞬で、寒かったんだろう、すぐに毛皮の襟に顔を埋めた。男の子の体からは牛乳を拭いた雑巾のような臭いがした。生きているあかしの匂いだ。
「おーい、いたぞー」
 子どもを抱きあげた拍子に涙があふれてきた。生まれたばかりの陽菜を初めて抱いた時のように。
「生きてるっ。まだ生きてるぞー」

 神森の遊歩道で13日から行方不明になっていた5歳の男児が1週間ぶりに無事保護された。男児は衰弱しているものの命に別状はない。この1週間のあいだに水や食べ物も口にしていたと思われるが、森の中のどこにいてどのように食べ物を得ていたのかは不明。男児は「クマさんが助けてくれた」と話しているという。
  

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 くらい水底から浮き上がるに浅い眠りから醒めた。最初にしたことは、左手を伸ばして、隣に寝ている真人がちゃんとそこにいるかどうか確かめることだった。
 指先が髪に触れた。みさきはその細い髪を指にからめとって、優しく掻きあげる。生えぎわが汗で濡れていた。ああ、ちゃんとここにいる。当たり前のそのことがこれほど大切だったなんて少し前までは思いもしなかった。
 上下する胸に手のひらをあてがうと、大人より高めの体温と速い鼓動が伝わってくる。たまらなくなって抱きしめた。
「ああむ」
 真人がひよこみたいに唇を尖らせて寝息を漏らす。眠ったまま乳房の間に入り込もうとするように頭を押しつけてくる。それだけで岬の胸は温かい空気で満たされた。
 真人が行方不明になっていた一週間は、地獄だった。肺や胃に絶えず鉛玉を流し込まれているようだった。心も体もちぎれかけた。