すこし考えてから日傘を手にとった。玄関の戸を開け放ったとたんフルボリュームで聞こえてくるせみの声に一瞬頭がぼうっとして、急いで首を振った。
「すみません、ほんとうに」
 柳瀬くんのお兄さんが歩きながらまた頭を下げる。
「この先に公園があるので…」
 高いところにのぼった太陽が、容赦なく狭い公園全体を照らしている。遊具もベンチも余すところなく熱されており、日陰が存在しない。公園の先の大型スーパーまで歩くことにした。入り口の近くにカフェスペースがあって、老人のまり場になっている。
 この人、見たことある。カウンターでコーヒーを買う後ろ姿を眺めている時に、ふいに思い出した。一度だけ、家に行ったことがあるのだ。勉強を教えてもらう、という名目で。今日のような日曜日の午後で、両親とお兄さんが家にいて、由乃が訪問した時はちょうど三人で食卓を囲んでいた。モデルルームのようにすっきりと片づいていることにまず驚いた。由乃の家はもっと、雑然としている。食事中はかならずテレビがついているし、弟や妹が好き勝手にしゃべってやかましい。
 柳瀬家の三人は、背筋をぴしっと伸ばして、ひとことも口をきかずに食事をしていた。挨拶あいさつをする由乃に対してめいめい「こんにちは」と言ってくれたが、その口調もやけにぎこちなく、ロボットじみていた。
「なんか、異様な感じ」と思いつつも柳瀬くんが「行こう」とすたすた二階に上がってしまったので、急いで後をついていった。つきあっている、と言っても「異様な感じのご家族だね」と軽口をたたけるほど深い関係ではなかった。
 辞去じきょする時にはもうお母さんしかいなくて、またぎこちない口調で「さようなら」と挨拶された。「ゆっくりしていけばいいのに」でも「また来てね」でもなく。
 透明のプラスチックのカップを、柳瀬くんのお兄さんがテーブルに置く。黒い液体の中で、細かく砕かれた氷がぶつかりあう。
「最近、希望に会いましたか」
 腰かけるなり、柳瀬くんのお兄さんが話を切り出す。
「いいえ」
 連絡先さえ知らない。柳瀬くんのお兄さんが、じっと由乃の目をのぞきこむ。嘘をついていないかどうか、さぐるように。
 良い話ではないだろうな、という気がした。導入からして不穏だ。
…なにかあったんですか?」
失踪しっそうしたんです」
 失踪。日常生活でめったに使用することのない単語だった。「いつ」と問う、どこか間の抜けた自分の声を他人のもののように聞く。
「六月の…そう、今から二週間ほど前ですね。マンションの部屋はそのままになっているのですが」
「柳瀬くん、今は実家にいないんですね」
「家を出て、ひとり暮らしをしてました」
 ではまだ独身だったのだ。もうなんの関係もないのに、安堵あんどしている自分がいる。すぐに、そんな状況ではないと思い直す。