尖筆師の道へと足を踏み入れたとはいえ、マヤはまだ義務教育期間中の身であり、初等学校に通わねばならなかった。
当時の欧州では、国によって児童の就学率に大きな開きがあった。独国および墺洪国が八割を越えているのに対し、露国はいまだ二割に留まっている。レンカフは伝統的に墺国と教育制度が近く、就学率は高い。ただ、それは豊かさのためというより、学問によって身を立てなければならないという国情のためだった。
初等学校に通うため、マヤは毎日レンカフ市の旧市街へと向かう。
支配階級である士族層の多くは旧市街に暮らしているが、泥徒の試作のために広い敷地を必要とするカロニムス家は郊外に屋敷を構えていた。通学には箱馬車を使わねばならなかった。
マヤが玄関を出るのは七時ちょうど。横付けされた馬車の前に、姿見を手にトマシュが待ち構えている。服装の乱れを確かめてから、車内に身を滑らせる。
「あなたも乗りなさい」
奥の座席へと移動しながら、スタルィを呼んだ。
大貴族と呼ばれていた旧家の子女が従者を伴って通学する例はあったが、不出来な泥徒を連れてゆくのは彼女だけだった。
トマシュは馬車の扉を閉め、御者席に向かって声を掛ける。
「イグナツ・カロニムスの下僕よ、イグナツ・カロニムスの名代として命じます。旧市街の初等学校に、マヤ様たちを送り届けなさい。時限よりも安全を優先すること」
泥徒に行動を強いるためには、主人の名をもって命令を下さねばならなかった。
それに従い、馬車を牽き始めたのは歪な泥徒だ。
太い四本の脚を備える替わりに、両腕は失われている。内在する原質の配分を変えた結果だった。イグナツの技術を以ってしても、新しい特性を加えるためには、別の何かを削らねばならなかった。
車室の中には、車輪が敷石を踏む無機質な音だけが響いている。
マヤはむっすりとした表情で、窓の外に目を向け続けていた。父は尖筆師になることを認めてくれたが、後継者としては見てはいなかった。それに値するのは、一番弟子のザハロフということだ。家長になりたければ、彼を越えねばならない。
目の前を、二人乗り自転車が影を引くように走り抜けてゆく。後部座席に人間を乗せながら勢いよくペダルを漕いでいるのは、家庭向けの汎用泥徒だ。泥徒が低廉な価格で手に入るこの国では、御者と馬車を維持するより経済的な移動手段といえた。
マヤを乗せた箱馬車は郊外を抜け、新市街に差し掛かる。
通り沿いには高層の商用住宅が並んでいた。一階は店舗や工場として使われ、上階が住居となっている。実利的な新興貴族たちが好む、土地の限られたこの国ならではの建築様式だ。
さらに進むと、前方に煉瓦造りの高い壁が迫ってくる。
旧市街は、十五世紀末に建造された高い城壁によって護られていた。中に入るためには急勾配の陸橋を登り、壁の中腹に設けられた城門をくぐらなくてはならない。
視界が水平に戻ると、そこは旧市街だった。
狭い道の両脇には、隙間なく石造りの建物が肩を並べていた。増改築を繰り返された建物たちは互いに融合し、青で統一されたスレート屋根とも相まって、街全体がひとつの建築物のようにも見えた。
旧市街の中心に建てられた市庁舎の向こうに、ようやく初等学校の尖り屋根が覗いた。
(つづく)