猫と罰

猫と罰

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    二

 一抹いちまつの恐怖さえ覚える奇妙な邂逅かいこうは、まるでそれが幻だったかのように、急速に現実感が失せていく。八つの命を生きた己でも、あんな女は…もとい、あんな人間は初めてだ。本当にゆめまぼろしだったのかも知れない。
 非現実的な体験が早くも記憶から消え去りそうになるが、その度にあの女の顔、そして表情が脳裏によみがえり、離れてくれない。
 何だったんだ、あれは。
 混乱する頭を落ち着かせながら、己は人気ひとけの無い住宅地の、家庭菜園をやってるらしい物置小屋の傍で、日当たりのいい場所を選び、丸まって眠る。黒い体毛には、朝の弱い陽光でも十分に暖かく、心は微睡みの中で徐々に平静を取り戻していった。
 だが、太陽が真上に昇りきらない内に、己の平穏な時間は妨げられてしまった。
「お前か、逃げた奴は」
 低い、雌猫めすねこの声だった。己は無視をして、じっと目をつむったまま寝たふりをする。内心、安眠を妨害され立腹してはいたが、妙な奴に絡まれることの面倒臭さが先に立つ。無闇に喧嘩を売るほど、己も幼くない。
 だがその雌猫は、一度無視をされたにも拘わらず、何度も己に呼び掛けた。
「聞いているのか。おい、おい…起きろ、小僧」
 小僧呼ばわりには、流石にカチンと来る。肉体的な意味では違いないが、『九つめ』の己と対等に張り合える奴がそう易々やすやすと居て堪るものか。己は片目を開け、丸まった姿勢のまま、己を見下ろす成猫の顔を見る。
 そいつは、茶白の雌だった。悠然とした態度で己を見下ろし、挑むような目付きをしている。今の己の体よりもずっと大きく、五歳は間違いなく越えているだろう。喧嘩になったら、造作もなくひねつぶされるに違いあるまい。
 しかし、己からすればこいつの方が若造である。己は再び目を閉じ、ゴロリと背中を向けてやった。相手も少し苛立いらだっていると見え、やや口調を荒らげて続けた。
「エリカに免じて噛みつくのは止めてやるが、年上への敬意を忘れたお前の態度は、早々に改めろ。虫唾むしずが走るわ」
 エリカとやらが誰なのか知らないし、相手に敬意を払うという価値観も無くした己に、この茶白の声は響かない。己は前脚の毛繕いなどを始めて、こいつの言葉はただ何となく聞き流していた。
 茶白は、先程よりも語気を鎮め、落ち着きをやや取り戻した声で…いや、呆れ果てた風に言う。
「まあいずれ、お前も北斗堂ほくとどうに来るよ」
 そのまま、すたすたと茶白は帰っていく。
 何だったんだ。

(つづく)
※次回の更新は、7月5日(金)の予定です。