【試し読み】「日本ファンタジーノベル大賞2024」大賞受賞作!『猫と罰』④

猫好き集まれ!『猫と罰』刊行記念特集

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「慈愛と寛容のものがたり」(漫画家・ヤマザキマリ氏)、「猫好きにはたまらない一冊」(女流棋士・香川愛生)と各界の猫好きが大絶賛する、宇津木健太郎氏のデビュー作『猫と罰』は、明治の大文豪、夏目漱石の黒猫が輪廻を巡っていく「日本ファンタジーノベル大賞2024」受賞作です。
かつて漱石と暮らした黒猫は、何度も生と死を繰り返し、ついに最後の命を授かった。過去世の悲惨な記憶から、孤独に生きる道を選んだ黒猫だったが、ある日、自称“魔女”が営む猫まみれの古書店「北斗堂」へ迷い込む―。猫好きには堪らない”ハートフルビブリアファンタジー”の冒頭部分を5日連続で特別公開いたします。

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 今時珍しい、個人経営の古書店である。
 やっと少し広くなった道に面しており、木造の外観もかなりガタが来ていた。住宅地に突然現れるその店は、左隣と向かいが空き地になっている所為せいもあり、そこだけ時代から取り残され、孤立しているように見える。だが同時に、そんなさびれた様子が土地柄に馴染んでいる風にも見えた。
 あの男の時代には当たり前のようにあった、雑然と本が棚に収められ、人一人がようやく通れる隙間が確保されているだけの、紙の匂いが充満した古書店だ。日除けのひさしと、昭和ガラスの嵌められた建て付けの悪い引き戸の入り口が少し新しい。昔にそこだけ新調して、そのまま古びていったのだろう。
 よくあの男は、こんな店の匂いを着物から漂わせて帰ってきた。気難しい顔で、面白くなさそうな本をつまらなそうに、しかし熱心に読んでいたのを思い出す。まあ時に、本の上によだれを垂らして眠りこけることもあったが。
 ──そんな男とは似ても似つかない背格好なのに、何処か似通った雰囲気をまとう、奇妙な女が店先に居た。
 色褪せたジーンズにシャツという野暮ったい格好にサンダルをつっかけ、店の脇に生えた樹から散った葉をほうきで払っていた。目付きが悪く、猫背気味で、適当に長髪を後ろに束ねている。年の頃は、三十半ばというところだろうか。チェーンを引っ掛けた眼鏡を首から下げており、チェーンの装飾にはますのチャームがある。実に頓痴気とんちきな身なりだ。
 現代の女は田舎町でももう少しシャンとしているぞ、と物申してやりたくなったが、思えばわざわざ女の容姿について己が口を出す謂れはない。取るに足らない、愛想の悪そうな女だ。構ってやる必要など何処にあろう。
 だというのに、何故か己はその店の前で、その女のすぐ傍で、足を止めてそいつをじっと見上げていた。
 視線を感じたのか、女は己に目を向けた。にらむような目付きだったが、箒を動かす手を止めて、気取ったように微笑み、声を掛けてくる。
 その第一声は、とても奇妙なものだった。
 「思ったより、早かったね」
 何だ、こいつは。
 猫が好きだからと、一方的に話し掛けてくる人間は数多い。はた迷惑で自分勝手な押し付けの好意を向けられても、己には迷惑でしかなかった。
 だが、こいつの言葉はそうしたたぐいとまるで違う。飄々とした態度を崩さず、女は体を己の方へ向けて、重ねてこう問うたのだ。
「おチビさん、名前は?」
 まともな人間なら、まずしない質問だ。猫の答えなど、鳴き声以外に期待しないからだ。人に伝えられる言葉など、生憎あいにく、己達は持ち合わせていない。答えられるはずがない。
 けれどこの女は正面を向き、己を見下ろし、答えを待っている。
 返事を期待しない一方的な問い掛けではなかった。女は真っ直ぐに己の顔を見て、微動だにしない。明らかに、己が答える言葉を待っていた。
 ようやく体が動く。急いできびすを返し、近くの家の塀に跳び上がり、薄暗い家と家の間の陰に紛れ、必死に女から逃げた。
 女は、追ってこなかった。