猫と罰

猫と罰

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 長いようで短い夜が明けた。まだ街の姿は見えない。
 猫の足では、山間部の村と村の間を行き来するだけでも一苦労だ。夜通し歩いても、目的地は程遠い。徐々に蒸し暑くなる、草と土の匂いが混じった空気を吸い込みながら、己はいつまで続くとも知れない田舎道を歩き続ける。朝靄あさもやが掛かった、湿った空気が体にまとわりついた。
と、遠くからかすかに車のエンジン音がした。
 咄嗟とっさに道を抜け、林の茂みに逃げ込んで姿を隠す。茂みの中から、己が今歩いてきた方をじっと見ていると、おんぼろの軽トラががたがたと悪路を走ってくるのが見えた。車体は土で汚れ、荷台には農具と野菜が積まれている。軽トラは少し離れたところに止まり、運転していたじじいは誰も見ていないのをいいことに、路傍で悠然と立小便を始めた。野良猫でもあるまいに、品の無い男である。
 そんな下品な爺の顔には見覚えがあった。週に何度か朝方に軽トラを走らせ、街の駅に近い無人販売所へ野菜を補充に行く農家の爺だ。いつだったか、歳のせいで野小便のしょうべんがしづらくて困る、とやはり下品なことを家族に愚痴っているのを、上の姉と共にあいつの家の裏手で聞いた。確か、庭先に干していた川魚の開きを盗みに入った時だったか。
 ともかく、この車に乗ってしまえば、己は街へ連れていってもらえるというわけだ。
 己は音も立てずに車に駆け寄り、軽々と荷台へとジャンプした。土臭い野菜ばかりに囲まれる中で、己は体を丸め、農具の陰に身をひそめる。
 やがて、小便から戻った爺が再び軽トラを発進させる。やかましいエンジンの音と落ち着かない振動が生まれ、己の体は野菜や農具と共に街へと連れていかれることになった。激しく揺られながらも体は短時間で慣れてしまったのか、ほんの短い間だが己は眠りに落ちる。
 そうして微睡まどろんでいる内に、軽トラが止まった。
 目を開けて、荷台の外を見回す。
 土の匂いも、木々の匂いもしない。虫の音も聞こえなかった。荷台から見る限りでは、空を遮る山も無い。極々平凡な住宅地のようである。案の定、森よりも暖かい。その代わり、空気はあまり美味くなかった。近くを通る電車の、車輪が線路を叩く音がうるさくて仕方がない。
 爺が荷台のアオリ戸を開けて、野菜を幾つか取り出していくのを、農具の陰からこっそりと見送る。そうして軽トラに背を向け、無人販売の棚に野菜を順番に入れていく様子を確認して、己はそっと荷台から飛び降り、またトコトコと道を歩き始めた。
 農村ほど早くはないが、街もまた朝からせわしない。既に何百人という大勢の人間達が駅に吸い込まれ、各々が働く場所へと向かっていく。己はそんな人混みを避ける為、改札とは反対方面、人通りの少ない細い道が入り組んだその先へ向かうことにした。
 塀の上を歩きながら、横目に線路や駅のホーム、そしてそこに集まる人間達を見て、己は心底あきれてしまう。誰も彼も、うつむいて手元の本や新聞、携帯電話に視線を落とし、己という仔猫のことを気にしない。自分のことにご執心しゅうしんらしい。
 とにかく人間はこうした、ストレスの溜まる密集した場所での行動をやたらと好む。こうすることで労働とやらを行ない、金を稼ぎ、日々の飯にありつくのだ。
 つくづく、奇妙な連中だ。何度転生を繰り返しても、その思いは変わらない。
 腹が減ったなら、自分で飯を獲ればいい。動物として生きるとはそういうものだ。だのに連中ときたら、矜持きょうじやら尊厳やらを持ちだし、見栄を張り、言い訳をし、これが理想だと自分に言い聞かせながら、夢とやらを追いかけたり、労働に邁進したりする。そうして勝手に体を壊し、挙句に死んでいくのだ。
 猫の方がどれほど賢いか分からない。本能で動きつつ、ここぞという時は知性と理性で物事に対処する。「生きる」という行動原理が根底にあるから、つまらない矜持など持ち合わせる余地もない。
 現実はとても冷ややかで、理想主義者に甘くない。
 己の経験と本能は、しっかりと己自身にそう警告をするのである。
 そう。己は、本能に従う。人間と嫌々ながら関わるのも、自分が生きるという根源的な欲求故だ。連中の決めたルールに己が従ういわれなど、あろうはずがない。
 だから、既にチリチリと日差しが照りつける住宅街を、己は自分の直感に従い、そして気まぐれに歩いた──そう、歩いたはずだった。
 けれど何故か、体が何処かへ吸い寄せられるように動く。
 喉も渇き、腹も減っている。しかしスズメやら虫やらをとっ捕まえて腹を満たそうと思うよりも先に、己の足が動いた。己の意志とは無関係に、道をスイスイと進み、曲がり、坂を上り、階段を降り、まるで見知った道を進むように、己は歩き続ける。まるで、何かに導かれるように。

 …そうして己は、或る店の前で足を止めた。

(つづく)
※次回の更新は、7月4日(木)の予定です。