どうしようもなくさみしい夜に

どうしようもなくさみしい夜に

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 一週間が過ぎてもお母さんの舌がブルーレット色になっていた原因はわからなかった。お父さんが病院に連れていくのを億劫がったからだ。高校の三者面談の日、わたしはお母さんの歯を厳重にチェックして、ミンティアとマウスウォッシュを大量に口につっこんだ。高校は学年末テストが終わったばかりで浮かれた空気が流れていた。わたしの学年は来月に修学旅行も控えている。お母さんは杖を大仰に鳴らして廊下を歩き、段差のないところでつまずき、階段を亀のような速度で進んだ。すべて難病の症状だった。振戦、動作緩慢、筋強剛、姿勢保持障害。完全に寝たきりではない。夜中に起きたときは意識が覚醒しきれず筋肉に力が入らないから一人で歩けなくなるらしい。日中は多少の距離であれば歩くことができた。すれ違う生徒に奇異の目を向けられる。無駄なボランティア精神で声をかけてくる生徒もいる。友達とすれ違う時には目を伏せて気づいていないふりをした。いつもの何倍もの時間をかけて教室にたどり着いた。教室は暖房が効きすぎるくらいに効いていた。佐藤先生がわたしに気づいて軽く手をあげる。担任とお母さんが「本日はお越しいただきありがとうございます」「いやあ遠かったです」「ご足労をおかけして恐縮です」「あたしがこんな体じゃなかったらね、アハハ」と挨拶をかわしあっている。佐藤先生の顔が引きつっていて、いたたまれなくなる。向かいに座る。ブレザーを脱いでも体に重ったるい温みがまとわりついている。お母さんが机に杖を立てかける。
 佐藤先生がわたしの成績表を机に広げ、今年一年の学校生活について振り返りをはじめる。お母さんは成績表をのぞきこみ、「あら眼鏡忘れた。見えんわ」と佐藤先生にそれをつき返す。佐藤先生のよどみない声が止まる。猫背のお母さんはわたしよりもだいぶん小さく見える。ひとつ咳払いがあり、成績表を読み上げる声が続く。
「お母さんから見てご家庭での沙智さちさんはいかがですか」と佐藤先生が尋ねる。お母さんは待ってましたとばかりに話しはじめる。
「さっちゃんにはあたしの介護も家事もやってもらってて、負担やろうなあって心配しとったんです。それまで家ではなんもせん子やったしね。あたし、薬の効かんあいだは歩くこと一つできんけん」
 お母さんが机の縁にひっかけていた杖に触れる。
「不自由させてきのどっかなあて。あたしの障害年金がおりたらよかとばってん」
「おうちでもお手伝いをたくさんされていて素晴らしいですね。学校でも清掃の時間など真面目に取り組んでいただいていまして」
 佐藤先生がいつもよりワントーン低い声でほめ言葉を紡いでいく。真面目。優しい。そんな誰にでもあてはまるような言葉たち。お母さんはそれを嬉しそうに聞いている。卒業後の進路のことを尋ねられる。単純に答えたくなくて、考えるのが億劫で「いまは考えてません」とつき放した返答をする。佐藤先生はめいっぱい好意的に解釈してくれる。そうですね、いまはおうちでのお悩みも多いでしょうし、少しずつ解決していって、三年生になったら進路も本格的に考えていきましょう。そんな言葉。上滑りして、うまく耳に届いてこない。少しずつ解決と大人は言うけど、解決できる人間なんていない。薬が効く。障害年金が出る。解決の道は明確だ。道は明確なのに、薬がいつから効くのかも、障害年金がいつから受給できるのかも、わたしにはわからなかった。
 わたしが顔をうつむかせたとき、鉄パイプが落ちたような金属音が鳴った。見ると、お母さんの杖が床に倒れていた。お母さんがあわてて拾おうとして転びそうになっている。「あ、大丈夫ですよ、お母さん」と佐藤先生が拾ってくれた。お母さんの顔は紅潮している。わたしもきっと顔が赤くなっている。お母さんが緩慢に姿勢を戻す。トレーナーの首元に青いしみがあった。
 教室を出ると優子が廊下の椅子に座っていた。出席番号がわたしの次で席が近いからたまに話す。優子のとなりには黒々とした長い髪の女性が座っていた。優子のお母さんだろう。ブラウスに濃紺のジャケット、首元に淡い緑のスカーフを巻いている。優子が緊張した面持ちで立ちあがる。「さっちゃん、どうだった?」と眉を下げて聞かれる。
「別に普通だよ」
「あーさっちゃんは怒られないよねえ、あたしバカだからなあ」
 彼女はそう言いながら前髪を一房ずつ整える。綺麗に整えられた眉がちらちらと見える。わたしは成績がいいわけではない。わたしが怒られないのはわたしが優等生だからじゃないってことをこの子はわかっている。特別扱いされてるもんね、と目だけで訴えてくる。その目がするっとわたしのお母さんを見つめる。いやな予感がした。猛烈に。優子の口が開く。あ。小さな音。
「さっちゃんとこはおばあちゃんなんだあ」
 わざとらしいくらいに目を細めて。この子は知っている。わたしが難病の母親を介護していることを知らないクラスメイトはいない。心優しい佐藤先生が朝のホームルームで事情を話して、手助けしてやってくれと宣言したから。優子のお母さんが慌てた様子で「こら、失礼でしょ」と優子の肩を叩く。目を伏せる。お母さんを見つめる。お母さんはベリーショートで白髪の混ざった髪で化粧っ気がない。しわもたくさんあって杖をついていて腰は曲がっている。着替えが上手くできなくて、部屋着のベージュのスウェット上下を着ている。手は震えている。うつむいてわたしとも目を合わせない。自分の指を握りしめる。指先は冷たいのに、体は火照っていた。
「お母さんだよ」とだけ返事をして、お母さんの腕をつかんだ。脇の下と肘を支える。行こう、と小さく呟いて歩きだした。杖がかつんと音を立てる。殊更にゆっくりと進んだ。