VR浮遊館の謎

VR浮遊館の謎

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 一石教授がレーザーに囲まれたガラスの円柱にゆっくりと歩み寄っていき、グリッド線の手前で止まった。
 三澄は胸に手を当てながら一度だけ深呼吸をして、キーを叩いた。その動きに合わせてすべてのレーザーが緑色の光線を放ち、細長いガラス管に吸いこまれていった。
 全方向からの光線を受け止めたガラス管は、緑色の太陽のように強力な光を放っている。細長い太陽だ。非日常的な光景だった。
「レーザーは何度見ても美しいな。美しいし、恐ろしい。こんなにも神秘的な領域に、人間が踏み込んでいいんだろうかね」
 一石教授は誰にともなくつぶやいていた。
「先生!」
 三澄の言葉に一石教授が振り返り、子供のような笑みを浮かべた。
「きたかな」
「はい、三十秒後の乱数が、一石教授宛に」
「どれ―」
 一石教授は三澄の隣にあるデスクに座り、俺のことを手招きした。俺と二階堂さんは一石教授の後ろに立ってディスプレイを覗きこんだ。
「ここにカメラがあるだろう。この高精細カメラは網膜認証のセンサーになっている。未来からのメッセージは、未来から指定された人物しか開けない。建物の入り口も、同じ仕組みの網膜センサーだよ」
「先生、説明はあとで」
「うん」
 画面にその高精細カメラの映像が映し出される、四角いフォーカスが自動的に一石教授の瞳に重なった。即座に「認証完了」と表示される。一石教授が嬉しそうに俺を振り返る。
「コンマ二秒での認証。ソフトウェアもハードウェアも三澄くんの設計だ」
 一石教授は我が子を自慢する親のような笑みを俺に向けた。
 そのあとに表示されたのは、見慣れたチャットツールによく似た画面だった。デザインは味気ない。たった一つだけ表示されているメッセージには、コンピュータのタイムスタンプと、数えきれない桁数のランダムな文字列が並んでいた。それを指差しながら、一石教授が言う。
「これは、指定した時刻に計算機がランダムで吐き出す文字列。今から八兆年間、同じ文字列を吐き出すことは絶対にない。それが、この装置を起動した三十秒後のタイムスタンプと一緒に未来から自動送信されてきた」
 三澄は隣から画面を覗きこみ、それを恐ろしいスピードでタイプしながら言った。
「つまり、この文字列とタイムスタンプが一致していれば、未来から送信されたメッセージを受信できたってこと。この文字列はタイムスタンプに対して絶対に一意だから」
 パチンとエンターを叩き、表示を確認した三澄は、無邪気な笑みを一石教授に向けた。
「一致、してます」
 一石教授も満足げなうなずきを三澄に返した。
「今日が時間を超えた通信技術の起点日、ビッグバンの日だ。今、何件きてる?」
「二千件弱、一番遠いタイムスタンプは二〇五四年」
 三澄の答えに、俺は思わず声を上げた。
「二千件? この一瞬で?」
 一石教授がまた俺を振り返った。
「この装置が起動し続けている限り、今日という起点日にメッセージを送ることができる。今この時刻から、すでに過去になっている起動した瞬間に送ることもできるし、明日から今この時刻に送ることもできるんだよ。想像しづらいかも知れないが。その状況がおよそ三十年間続いて起点日に送られたのが二千件。これは検証行為の範囲内と言える。どうやらこの装置は正しく管理されるみたいだ。万里部くんの参加で研究内容が漏洩しないことが、今証明された」
 一石教授の言葉通り、状況は俺の理解を遥かに超えていた。一石教授は俺に向けていた視線を三澄に戻して言った。
「そうだろう三澄くん。万里部くんは秘密を守ってくれるんだよ」
「かもしれないですね」
「他にもここから立てられる仮説はあるね。おそらくこの装置は二〇五四年に役目を終えるんだろう。次世代の装置に役割を引き継ぐのか、あるいは人類が手放すことにしたのか、今は知る由もない」
「二〇五四年―」
 三十年後。俺は五十二歳、か。まったく想像できないな。
「わたしと泰兄のアカウントにも動作確認用のメッセージが届いてるはず」
 三澄はそう言って、今度は自分の網膜を認証して別のメッセージリストを表示し、さっきと同じように長い乱数を別の端末に打ち直した。それも完全に一致していたらしい。
「泰兄も」
「うん」
 二階堂さんが前屈みになってカメラに視線を向ける。
 三澄が検証している間に一石教授が俺を振り返って言った。
「基本的に一人一アカウント。生体認証で過去の受信者を指定する仕組みだ」
「あなたの網膜も登録するから、カメラの前に座って。入り口の認証に使うのと、なにかのときの保険」
 三澄はディスプレイを見つめたまま無感情に言ってから俺を振り返った。
「保険?」
 思わず聞き返した。
「警察が指紋を採るようなものよ」
…そう言われると複雑だな」
「例えよ。わたしの管理のほうが遥かにセキュリティーレベルは高い、一緒にはしないで」
 一石教授は笑いながら立ち上がった。入れ替わって俺がそこに座る。三澄がなにかのキーを叩き、画面がまたカメラの映像に切り替わった。さっきと同じように、俺の瞳に四角いフォーカスが重なる。
「はい終わり」
 すぐに三澄が言った。
「もう?」
 三澄はなにも答えなかった。
「入り口のシステムにも万里部くんのアカウントを登録しておくよ。翠、あとでそのデータをくれ」
 二階堂さんが横から言った。
「どうぞ」
 と、三澄は小さなUSBメモリをコンピュータから引き抜いて二階堂さんに渡した。
「流石の速さだ」
 二階堂さんが笑いながら受け取り、一階への階段を上がっていった。
 一石教授がもう一度、発光しているレーザー装置に歩み寄っていく。三澄も立ち上がり、一石教授の隣に立った。俺は座ったまま二人の背中を眺めた。
「我々宛のメッセージがないのも喜ばしいね。未来の私たちは誘惑に打ち勝って、私的にこの装置を使うことはなかったんだ」
「はい。運営と管理を委任する組織編成は今のままで最適な可能性が高いです」
「あとは―いよいよ時間の重なりに伴う可能性の揺らぎの検証だ。世界の仕組みを解明するヒントが一気に増えた」
 一石教授はしばらくレーザー光線を眺めてから俺のほうを振り返った。イタズラっぽい笑みが口元に浮かんでいる。
「未来とのやりとりができる装置。リングレーザー通信機。どうだい、夢のようだろう」
 どう返事すればいいかわからず、曖昧なうなずきだけを返した。
「納得していなさそうだね。せっかくだから原理を説明しよう」
 そう言って一石教授は、部屋の端にあったキャスター付きのホワイトボードをガラガラと引っ張ってきた。二階堂さんも一階から戻ってきて、ホワイトボードの前に椅子を持ってきて座った。三澄があてつけのように大きなため息をついた。
「人類の無謀な願いはいくつもあるが、タイムマシンの開発もその一つだろう。それが今叶ったんだ。ただし、このリングレーザー通信機は映画や小説で描かれてきた装置と比べると大分見劣りはする。例えば―」
 一石教授は青いマーカーのキャップを外してレーザーの中心を指しながら続けた。
「人やものを過去に送りこむことはできない。今のところね。技術が進歩すれば物質の転送も可能となるかもしれないが」
「えっ」
 思わず声が漏れた。一石教授がにっこりと微笑む。どうやら俺の指摘を待っているらしい。俺の脳裏には、起動した瞬間に一斉に届いたメッセージ二千件という数値が浮かんでいた。
「じゃあ、この場所に未来の物質だか人だかがポンポン送られてくる可能性もあるってことですか?」
「実にいい質問だ」
 一石教授はマーカーを指揮者のようにくるりと回してみせた。
「結論から言うとそうはならない。何故か。答えは、この装置の原理から実に簡単に導き出される」
 一石教授はそこでホワイトボードに数式を書いた。見覚えはない。大学の試験は全部一夜漬けのその場しのぎで乗り切ってきた。今の俺の知識は理系学生とは言えない水準にまで落ち込んでいる。書き終わった数式をじっと眺めている間、三澄の凄まじいスピードのタイプ音が響いていた。
「これはアインシュタインが物理学界に残してくれた美しい方程式の一つ。一番有名なものではないけどね。重力場方程式と呼ばれている。実はこの方程式には、物理的な意味を持つ厳密解が数えるほどしか存在していない」
「時間の無駄ですよ先生、もっと単純化したほうがいい」
 三澄が呆れたように言った。
 実際、そのとおりだった。なにがなにやらサッパリわからない。
「じゃあ、単純に言うと―最近見つかった厳密解が、閉じた時間のループを生み出すことがわかった」
「閉じた時間の、ループ」
「そう。それはイメージできるだろう」
 一石教授はぐるりと円を書いて、指でそこを辿った。
「ここが、過去で、ちょっと進んで現在、更に進めば未来になるが―その先にまた、過去がくる。これが閉じた時間のループ。これを生み出す状況が見つかった。発見者はアメリカのロナルド・L・マレット博士だ。素晴らしい功績だよ。実際、彼はタイムマシンの設計図で特許を申請してもいる」
 俺は思わず目を見開いた。
「特許? そんな、突飛なものに?」
「飲み込みが悪いわねあなたは」
 三澄がうんざりしたようにため息をつく。
 二階堂さんが苦笑いを浮かべて助け船を出してくれた。
「突飛じゃないからこそ、特許申請に進んだと考えればいい」
 一石教授がうなずいて続ける。
「そう、マレット博士の設計図は夢物語ではなく、科学的な理論に基づいたタイムマシンの設計図だった。我々はそれに、内部の重力場を飛躍的に増幅させる独自理論を組み合わせてこの装置を完成させた。だが創作世界の万能タイムマシンのようにはいかない。この装置の最大の特徴は二つ。装置を起動した瞬間までしか時間遡行できないこと。そして、装置を起動し続けていないといけないこと」
「だから今日が起点日となるのよ。今日以降の人類は、起動時まで遡ってメッセージを送ることができる。ただし、今日に送れるのはテキストデータのみ。何故か? ここまでお膳立てすればあなたにもわかるでしょう」
 一石教授に比べて三倍早口だった三澄の言葉を反芻する。
 この装置は過去と未来をつなげるものであり、どこまでも遡れるわけではなく、起点となるのは装置を起動した瞬間、つまり今日。
「今日のこの装置にテキストデータの受信機能しかないから、未来からもテキストデータしかこない…?」
「ご名答」
 一石教授が穏やかに言った。
「ついでに、三澄くんはさらに容量の大きいデータの転送を可能にしようと、鋭意作業中」
 なるほど、三澄の高速タイピングの目的はわかった。
 三澄はタイピングの手を止めずに口を開いた。
「現実的な補足をすると、わたしの生きているうちに生体の転送なんてどう転んでも無理。その前段階で生体の量子化と再構築が必須になる。そんな技術は当分実現しそうもない」
 三澄の言葉に、一石教授が楽しげにうなる。
「それはどうかな。この装置を運用することで得られるデータは、その見込みに入っているかい?」
「不確定要素は入れずに考えてますよ、もちろん」
「今日くらい夢を見よう。なんと言っても新たなビッグバンの日なんだ」
 一石教授がニッコリと笑い、三澄もキーボードを叩く手を止めて大人びた微笑みを一石教授に返した。
 おそるおそる手を上げて発言する。
「データ容量が増えるってことは、例えば画像とか映像とかが送れるようになるってこと…ですか」
「そのとおり」
 答えてくれたのは一石教授だった。三澄はもうタイピングに戻っている。
「ただし、受け取れるのは三澄くんの開発が完了したその日だ。だから彼女は毎日熱心に作業を続けている。勤勉だろう。さて―」
 一石教授はくたびれたスラックスのポケットから革ベルトの腕時計を取り出して眺めた。