2つの初舞台と20歳の決断

 中学に入学してすぐでしたかね、床本ゆかほんを数冊渡されました。床本とは舞台で使う筆書きの台本で、太夫自ら義太夫文字という書体で書き起こす舞台道具のひとつです。舞台に立つ予定があったわけではなく、床本書きの練習のために渡されたので、先輩の床本を見よう見まねで書いていました。
 師匠である豊竹咲太夫さきたゆう師匠に正式に入門してからは、中学生とは言え一門の末弟なので、大阪公演中は学校に通って、部活をした後に、劇場に行って楽屋で小道具の準備や先輩方のはかまを畳み、師匠の家に行っては掃除をしていました。
 初舞台は中学2年生です。豊竹咲太夫師匠の舞台生活50周年記念公演に出演しました。素浄瑠璃と呼ばれる義太夫節だけで演じる文楽で、演目は「義経千本桜よしつねせんぼんざくら」の「道行初音旅みちゆきはつねのたび 」。大勢の太夫が出演したのですが、初めてのプロのお稽古の熱量に圧倒され、負けないようにと、合唱のようにただ大きな声を出すことしかできませんでした。ずっと緊張していたので、ほとんど記憶も残っていません。
 高校1年生で、国立文楽劇場の本公演に初めて出演した時のことはよく覚えています。お能の「小鍛冶こかじ」というファンタジックな要素のある演目だったのですが、他の太夫と一緒に演じるため床が増設されたんです。私は端の席なので、横を見ると太夫の先輩方が見える、舞台の人形の様子も全部見える、その全ての風景が気持ち良くて、小学校の発表会と同じ感覚でした。それでもあの頃はまだ、遊びの延長線のようにしか考えていませんでした。
 太夫を生涯の仕事にしようと決めたのは、20歳の時です。高校卒業後、半年くらいお休みをいただき文楽から離れさせてもらって、俳優のオーディションを受けたり、小説の新人賞に応募して過ごしていました。20歳になった頃、器械体操を指導してくださっていた先生が成人のお祝いにお酒を飲もうと声をかけてくれたんです。身体が丈夫になって喘息も克服できたのは器械体操のおかげなので、恩人であるその先生に、「君の10年後が楽しみだな」と言っていただいたのが印象に残っていて…。その言葉に報うためには、伝統文芸である文楽を守り続けるしかないと腹をくくり、生涯の職業にしようと決めました。