【試し読み】中江有里最新長編『愛するということは』④

女優・作家・歌手 中江有里最新長編『愛するということは』刊行記念特集

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直木賞作家桜木紫乃さんが「涙で書かれた家族の歴史に、最後まで頁をめくる手が止まらなかった」と大絶賛! 女優・作家・歌手として活躍される中江有里さん最新長編『愛するということは』が、8月29日新潮社から刊行されます。

ママ、けいさつにつかまらないでね―。主人公の里美は、娘の汐里と2人暮らし。若い頃の前科が原因で家族とは疎遠となり、やがて生活に困窮した里美は再び罪を犯してしまいます。里見は愛を夢見て、他者を妬み、やがて成長した汐里は愛を求めて、姿を消します。一度は訣別したふたりが、再び巡りあったとき…。「あらゆる母娘に、愛は存在するのか」を問う本作の冒頭部分を5日間、連続配信いたします。

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「新庄さん、ママのお友達」
 汐里と二度目に会ったのは里美の住まい──南新宿の小さなアパート。シングル向けの1LDK。新宿副都心のビル群が空をおおう街だが、青果店や精肉店といった小売店がぽつぽつとあって、意外にのどかな風情を残している。
 里美は夜のバー勤めの間は、一時保育に子どもを預けていた。
「汐里が生まれたばかりの頃は、実家で暮らしていたけど、両親と折り合いが悪くて喧嘩ばかりしてたんです…家を出ていた弟が結婚を機に実家をリフォームして二世帯住宅にするって…」
 口調が砕けたり、硬くなったり一貫していないのは、豊との年の差──十五歳年上を気にして、遠慮があるからだろう。
 弟夫婦と入れ替わるように家を出た里美と汐里が、ここで暮らし始めたのが約三か月前。
 部屋にはベッドと小さなテーブル。クッションがいくつか。テレビはあったが、豊がいるときは消していた。汐里が片手で抱きしめているウサギのぬいぐるみがこの家唯一のおもちゃ類だった。
 汐里は言葉の少ない子だ。どことなく大人びて見えるのは、同世代の子と話す機会がないからかもしれない。保育園にも幼稚園にも預けられていなかった。
「家賃とか、大丈夫なの」
 心配になって、つい口から出る。
「仕事は他にもあるので…」
 里美はボソッとつぶやく。豊はそれ以上聞けなかった。聞けば、何かしたくなる。
 汐里の父親のことを聞くのは控えた。こちらも知ったところでどうすることもできない。
 これから二人の、いや、汐里も含めて三人の関係をどうしていくのか、豊は決めていなかった。ただ里美と汐里と一緒にいると、心安らいだ。
 豊は里美と電話やメールでやり取りをし、里美がいる時に合わせて、アパートを訪ねるようになった。
 豊の存在に緊張を隠さなかった汐里だが、人形や洋服を買っていくと「しんじょさん、ありがとう」とはにかんだ笑顔を見せてくれるようになった。
「しんじょじゃなく、しんじょうなんだけど」
 汐里の舌足らずな言い方が可愛くて「どういたしまして」と返事をする。大人びてるのはそのまなざしだけで、豊になつきはじめてからは、ひざの上に座って来たり、抱っこをせがんだりする。豊はされるがまま、願いをかなえてやった。
 汐里が里美ではめられないものを自分に求めている。
 里美と休みが重なると、二人のリクエストで動物園に行った。汐里は動物園が初めてで、最初は里美の手を握り締めて不安そうに園内を歩いていた。
 人だかりのできているおりを見つけた豊は汐里を呼ぶ。
「しーちゃん、ゴリラだよ」
 里美が手を離し、豊の元へ行くように促す。恐々こわごわとそばに来た汐里を豊はゆっくりと抱き上げて、檻の中が見えるようにしてやった。汐里は驚くほど軽くて、柔らかい。
「しーちゃん、見える?」
「うん、ゴリラ、大きい」
「ニシゴリラっていうんだよ。人間に似てるよね」
…しんじょさんににてる」
「まじか」
 豊が笑うと汐里もクスクスと笑った。隣にいた孫らしい男の子と一緒にいた初老の女性が声をかけてきた。
「パパに抱っこしてもらっていいわね」
 その時、汐里はどんな顔をしていたのだろう。近すぎて確かめることはできなかった。