【試し読み】中江有里最新長編『愛するということは』③

女優・作家・歌手 中江有里最新長編『愛するということは』刊行記念特集

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直木賞作家桜木紫乃さんが「涙で書かれた家族の歴史に、最後まで頁をめくる手が止まらなかった」と大絶賛! 女優・作家・歌手として活躍される中江有里さん最新長編『愛するということは』が、8月29日新潮社から刊行されます。

ママ、けいさつにつかまらないでね―。主人公の里美は、娘の汐里と2人暮らし。若い頃の前科が原因で家族とは疎遠となり、やがて生活に困窮した里美は再び罪を犯してしまいます。里見は愛を夢見て、他者を妬み、やがて成長した汐里は愛を求めて、姿を消します。一度は訣別したふたりが、再び巡りあったとき…。「あらゆる母娘に、愛は存在するのか」を問う本作の冒頭部分を5日間、連続配信いたします。

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 その心が動く瞬間がある。震えたり、はねたり、早鐘はやがねを打ったり…思わぬ動きで翻弄ほんろうされる。
 最近、豊にはひとりで訪ねる店があった。青山にある禁煙のバーは取引先の下川しもかわ社長につれられて来た場所。社長にはひそかにれている女がいる。
 露出のない上下黒の服装。表情はとぼしく、化粧っ気のない肌は奇妙に白い。声は小さく、話しかけられても反応は薄かった。静かにカウンターの内側に佇んでいる女。
 印刷会社に勤めている豊にとって、二代目である下川の編集プロダクションも大事な取引先だ。さして年の変わらない下川は世襲とはいえ社長。比べて平社員の自分は頭を下げる立場でしかない。
 女はいつもいるわけではなかった。下川は酒を飲めない。女が目的でバーへ行くなんて馬鹿げている、という気持ちを恵比須顔で隠す。
 豊はあと数年で五十歳になる。定年までここに勤められるのだろうか…その間ずっと頭を下げ続けるのかと思うと、むなしくなる。その前に会社が存続しているかもわからない。不安定な土台の上にどんなに頑丈な建物を建てても、大きな揺れが来れば一巻の終わり。
 ならばいっそ思うままに生きてみたい──。
 そんな破れかぶれな気持ちが、あの女へと向かわせたのかもしれないし、下川が手を出せない女に近づいてみたかったのかもしれない。
 結果は求めていない。豊は開き直った心持でひとり青山へと通った。
 児島里美──やっとのことできだした彼女のフルネーム。
 特徴のある顔ではない。眉はりりしいが、目は大きくも小さくもない二重、小さな鼻、くちびるは薄い。耳は髪に隠れてよく見えない。ほとんど顔に色を感じさせず、着るものは上下とも黒ばかり。そのせいで影に溶け込んでしまうのかもしれない。
 ガードが固い、と下川が言っていたが、里美は豊が話しかけても、一言二言返すだけで離れた場所へ行ってしまう。他の客に対しても同じような対応だったので、嫌われてるわけじゃなさそうだ。
 豊は取られたくない、と思ったら積極的に行く。ダメならさっさとあきらめるだけだ。あまりにあっさりと身を引いた豊に、それまで素っ気なかった女の方から近づいてくるなんてこともあった。
 その日も里美とたいして会話をしないまま、勘定かんじょうを済ませると店を出た。
 駅に向かおうと腕時計で時間を確認すると、まだ終電までには少々余裕がある。店の脇の少し奥まったところを見つけて、かばんから煙草たばこを取り出し、一本くわえた。