【試し読み】中江有里最新長編『愛するということは』②

女優・作家・歌手 中江有里最新長編『愛するということは』刊行記念特集

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直木賞作家桜木紫乃さんが「涙で書かれた家族の歴史に、最後まで頁をめくる手が止まらなかった」と大絶賛! 女優・作家・歌手として活躍される中江有里さん最新長編『愛するということは』が、8月29日新潮社から刊行されます。

ママ、けいさつにつかまらないでね―。主人公の里美は、娘の汐里と2人暮らし。若い頃の前科が原因で家族とは疎遠となり、やがて生活に困窮した里美は再び罪を犯してしまいます。里見は愛を夢見て、他者を妬み、やがて成長した汐里は愛を求めて、姿を消します。一度は訣別したふたりが、再び巡りあったとき…。「あらゆる母娘に、愛は存在するのか」を問う本作の冒頭部分を5日間、連続配信いたします。

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第一章 夢見ることは

 児島里美こじまさとみには夢があった。誰にも話したことはなかった。

…さんに、な、なり…かっ…」
 やっと絞り出した声は言葉にならない。
…ったく、何言ってんのかわかんね」
 琢朗たくろうがわざと大きなため息をついた。里美の声を威圧するように指を一本一本鳴らす音が響く。苛立っているときのくせだ。里美の泣き声とポキポキと鳴る音が絡み合う。
「おまえの、そういうところが、いや、なんだ」
 指の音が琢朗の本音と絡み合う。
 里美は耳をふさぎながら、絞り出すように声を上げた。
「お母さ…お母さんに、なりたかったのに!」
「うるさいんだよ!」
 いきなりほほに衝撃が走った。左目が猛烈に痛い。平手打ちが勢い余って、琢朗の指が目に入った。床に崩れて、うつむいて左手でとっさに目を押さえた。目が傷ついたのか、頭に血が上っているからなのか、顔が猛烈に熱い。
「いっつも悲劇のヒロインぶって…すぐに責め立てて、俺の気持ちなんか考えてもくれない…お前みたいなのが母親になったら子どもも不幸になるんだよ」
 グアン、と声が、すべての音がゆがむ。里美は床に伏せたまま号泣した。あの女のお腹にいたのは琢朗の子──そう思いたくない、否定してほしかった。
「おい、…はなせよ」
 話す? 話すことなんて何もない。
 琢朗が手を伸ばして覆いかぶさってくるのを感じて、里美はとっさに右手を振り上げた。
「いてぇ」
 右手に何かが、当たった。奇妙な手ごたえが伝わる。
「うわ────!」
 琢朗が絶叫した。開かない左目を左手でかばったまま、なんとか顔をあげて右目で確かめる。赤に染まった琢朗の顔があった。
「なにすんだよ…」
 おびえた声の琢朗は里美を突き飛ばして、部屋を逃げるように出ていった。その時里美は、自分の右手に握られたままのナイフに気付いた。
 里美は傷害罪で逮捕された。

 バイト先で知り合った宮川みやがわ琢朗と里美は大学卒業後、同棲を始めた。琢朗は就職したが半年たたずに辞めてしまい、それ以降はバイトしては、ふいに辞めてしまうことが続いたが、里美は飲食店で働いて家計を支えた。「いつかはちゃんとする」という琢朗の言葉を信じた。
 同棲を始めて一年過ぎたころ、里美の妊娠が発覚した。
「就職して安定するまで待ってほしい」と泣きつかれて堕胎した。
 その直後、琢朗には別の恋人がいることを知った。その人は琢朗の子を身ごもっていた。そのことを知った里美はパンを切るためのブレッドナイフを琢朗に向けていた。