愛するということは

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「今さっき、ここで転んで…迷子かと思いホテルの受付へ連れて行ったところです」
 女性の長いまつげが柔らかく羽ばたいた。瞬時にあの子の母親だと思った。
「お嬢さんですか?」
 一瞬間があって、女性は口を開いた。
「いえ、そこで親御さんが必死に探していたから一緒に…私、独身です」
「あ、すみません」
 失礼なことを言ってしまった…真帆は頭を下げた。
「じゃ、大丈夫かしら」
 女性の口調に気にした様子はない。ホッとして真帆は「こちらに名前を」とペンを渡す。
「私、美晴のはとこのヒラオカと申します」
ヒラオカと名乗った女性はペンを手にしてから、芳名帳に名を記す直前にふと顔を上げた。
「美晴のお友達?」
 真帆は手元にあったはずの席次表が見当たらず、少しあわてていた。
「が、学生時代の友人です」
「お名前は…」
「藤堂真帆です」
 ヒラオカの顔がパッと明るくなった。
「そう、藤堂さんだったわ、美晴から聞いたのにうっかり忘れちゃって。美晴が藤堂さんに言付けがあるので、親族控室に来てほしいんですって」
「今、ですか?」
「披露宴が始まる前に、どうしても伝えたいらしいの。今、控室に挨拶に行ったら、そう伝えてくれって頼まれたの」
…そうですか」
「少しの間なら、受付は私が」
「え」
 北条はまだ戻らない。迷っていると、ヒラオカが安心させるようにたたみかける。
「大丈夫。心配なら預かった祝儀をお持ちになっても」
 真帆は引きつった笑みでごまかした。
…すぐ戻りますので、お願いできますか」
 真帆は親族控室に急いだ。

 帰りのタクシーで小さな左手を握り、ただ前を見つめていた。
 硬そうな短い白髪の運転手は、ベテランらしくスムーズに走らせる。もっと早く、もっと早く走らせてほしい。あせりと激しい動悸どうきを抑えようと深呼吸を繰り返す。
 沈黙が重苦しくなったのか、隣からか細い声がした。
「ママ、桜、きれいね」
 ふと、握っていた手の震えが止まった。窓の方を見ると近所の公園では一本しかなかったのに、この辺りはどこも桜がいっぱいだった。
「汐里」
「なあに」
「来年は、小学生だね」
 外の光がまぶしくて、隣にいる汐里の表情は闇になってしまった。

(つづく)
※次回の更新は、8月27日(火)の予定です