成瀬は天下を取りにいく

成瀬は天下を取りにいく

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 そのあとの1週間は、ずっと目の焦点が合わないようなめまいがしていた。オンラインで開講されている教養科目だけは出て、対面の学科授業は休んだ。先生のことを考えていた。考えれば考えるほど、わからなかった。
 潔癖、彼女、休職、音信不通、セクハラ、剽窃、落第生。ジュンさんがやったように、単語を並べて、文章にして、要約していくことは難しくはなかった。点はいくつもそろっている。それをつなぎ合わせていって、身勝手だとか、コンプレックスとか、そんな言葉で決着をつけるのが簡単だ。でも、そんなことをしてしまったら、高遠先生の「本当」が一生わからないと思った。簡単にしたくなかった。
 夜中、珍しく柚愛からLINE通話がかかってきた。教養科目のレポートテーマを聞き逃したから教えて、という用件だった。夏生がノートを引っぱりだしてきてテーマを伝えてからも、柚愛は通話を切ろうとしなかった。大学を休んでいる理由を、暗に問われているのだなと理解する。高遠先生の実家に電話してみたんだよね、と笑い話っぽく話してみると、柚愛は、
「夏生、ほんと高遠センセーのこと好きだよねえ」
 と呆れた声で言った。
 アパートの階下の居酒屋から、大学生らしき若い男が大声で笑うのが聞こえる。大学からは飲み会の自粛を呼びかけられているけれど、サークル活動が再開されてからは、毎晩のようにだれかが飲み会をしていた。
「柚愛こそガチ恋勢だったでしょ。へんすんのはやすぎ。泣いてたくせに」
「言わないでよ。あれはちょっと頭おかしかった」
「自覚してんだ」
「さすがに。でもみんなそうだったでしょ、あの時期」
「そう?」
 そうだよ、と柚愛が笑う。夏生は、なんで柚愛は高遠先生のこと追っかけてたの、と聞いた。いままで聞いたことがなかったのが不思議だった。柚愛が「えーっ」と鈴のような声をあげてから、答える。
「わたしはね、高遠先生が最初の履修面談担当で、履修面談の前かなあ、Zoomの練習したじゃん。高遠先生が面談担当してる生徒だけでZoomに入ってみて、Zoom繋げるかとか、webカメに接続できるかとかチェックするやつ」
「えっ、それわたし呼ばれてない」
 聞き捨てならない情報に驚いた。詳しく聞きたいのに、階下の騒音がうるさくて集中できない。夏生はベッドから起きあがって3点ユニットのバスルームに入った。ズボンを下ろさないまま、便器に座って、扉を閉める。扉一枚へだてると、騒音はだいぶんマシになった。
「そうなん? たしかにいなかったかも。でさあ、そのときに高遠先生がじゃんけんしようって言って」
「じゃんけん?」
「ラグが起きてないかの確認? みたいな。で、高遠先生3回連続で負けたんだよ」
 柚愛が黙る。しばらく次の言葉を待ってから、夏生は焦れて先を促した。
…で?」
「え、それだけ」
「はあ? なにそれ。ぜんぜんキュンキュンしないんだけど」
「えー? いいじゃん、なんかこの人不運だなあ、守ってあげたいなあ、キュン! じゃん」
「わかんないわかんない」
 口元を緩ませて会話の応酬をつづけながら、夏生は自分だけがZoomの練習に呼ばれてなかったという事実に戸惑っていた。謎に泣きたくなる。本当に、謎に。高遠先生がわざとそんなことをするわけがない。うっかりしていただけだ。そうわかっていても、気分は沈む。涙が浮かびそうになって、必死にこらえた。高遠先生の前だったら泣いていたかもしれない。柚愛の前で泣くのは、彼女に甘えかかるみたいでできなかった。
「高遠先生って、じゃんけん弱いんだ」とつぶやく。スマホを耳に当てたまま、洗面所の蛇口をひねって、手ですくって飲んだ。お風呂場の水って飲めるんだっけ? と思うけれど、たぶんキッチンと同じ水道管が通っているから、飲める水だ。東京の水はマズい。夏生はずっと、それに慣れられないでいる。
 電話を切ったと同時に、激しくむせた。からだがくの字に曲がる。背骨が天井に向く。のどがいがらっぽく、気管に細かい粒が張りついたみたいに咳がでた。スマホの画面に唾が飛び、丸い水滴がつく。このままずっと這いつくばっていたかった。

 発熱したのは一等冷えこんだ週末の夜だった。硬いマットレスの上で目を閉じると闇が回っている感覚がし、背筋が敏感になって少し触れるだけで体が跳ねるようだった。コンビニで酒を買った夕暮れの、泣きたいような、笑いたいような妙な感じが思い起こされた。なにか強い感情が頭を巡って、なかなか眠れなかった。
 翌日には熱はさらに上がった。味覚嗅覚をたしかめるとか、コロナ外来に電話するとか、考えだけは浮かぶのだけど体が動かず、じっとベッドに横になっていた。頭がガンガンして、吐き気までしてくる。解熱剤はほとんど効かなかった。這うようにしてトイレに起きたとき、水道水をコップに注いでベッドサイドに置いて、それを数時間おきに飲むことで生きながらえた。気がついたら眠っていた。
 ―フードデリバリーの置き配のピンポンで目が覚めて、スタバのコーヒーとカンパーニュを机に置き、あるいは起床時の空腹のままに食べて、シャワーを浴びてシャツに細ネクタイに着替え、パソコンを開いた先生が、女子学生からのメッセージに気づく。深夜3時にきているメッセージには彼を糾弾する内容が書かれている。どうせTwitterの文面のように感情的な幼い文章だ。先生はすぐに電話をかけるだろう。女子学生は出ない。何度かけても出ない。代わりのように、旧知の大学教授から電話がかかってくる。「お前、あの小説、盗作なんてしてないよな」と男は言う。先生は当然否定し、電話を切り、考えこんで、大学の教務課に連絡して休職を告げる? もしくはただふっと姿を消すことを考えるだろうか? そこで、あるいはもっとあとの酷暑の日、先生はふと体に違和感を覚える。咳が出る。喉の奥から息がすべてでてくるような、気管支が痛くなるような咳だ。咳は止まらない。先生はコーヒーを飲むだろう。そして、そのコーヒーに味がしないことに気づき、カンパーニュの匂いを嗅ぐ。動揺する。彼の部屋はさながら滅菌室だ。アルコール消毒は欠かさないし、玄関にはビニールカーテンを設置しているし、すべてのデリバリーフードは外箱を除菌シートで拭いてから室内に入れる。彼は止まらない咳に動転したまま、シャワー室に入り、コロナが治る水を頭から被る。夏なのに身体中を悪寒が覆っていて、髪に水が滴るその感覚さえひどく気に障り、咳はつづき、先生は水を被りつづけ、何本目かのペットボトルが床を転がったころ、意識が途絶えるのを知覚する…。
 窓から直接差しこむ朝日に照らされ目が覚めた。カーテンを閉め忘れて寝たらしかった。
 体を起こして、驚いた。熱がすっかり下がっていた。ひどい夢を見たのに、その記憶はもう曖昧になって、手を伸ばしても伸ばしても逃げていってしまう雲を追いかけるのと同等だった。窓を少し開けてみると、冷えて澄んだ空気が部屋に入りこんできた。夏生の気分もその空気と同じだった。澄んで、なんの淀みもない。
 習慣でつけたニュースではインターネット上で運営される会員制コミュニティによる詐欺事件が取り上げられていた。コメンテーターが「オンラインサロンが急増しているのはやはりコロナ禍によってオンライン上でしかコミュニケーションが取れない人が増えたからでしょうね。学びの場というのは上下関係が必然的にできるから、人を騙すのに最適なんですよ」と訳知り顔で語っていた。
 まだ足元だけがおぼつかず、部屋に溢れているニトリ家具に手をついて歩いた。なにもかもが、ものに触れるという行為すら楽しかった。カーテンをすべて開け放つと、眼下には登校している近くの高校の生徒が見えた。今日は大学に行けるだろうか、2限に「共通科目(仏文学Ⅱ)」が入っていたな、と計算しながら、同時に大学なんて行かずにどこかに行ってしまおうかとも考えていた。
 たとえば、東京タワーとかスカイツリーとか竹下通りとか。田舎ものがあこがれる観光地を、ひとりで回ってみようか。そんな気分だった。自由だった。
 冷蔵庫に入っていた食パンをかじって、家を出た。大学用の鞄はもたず、スマホと財布だけもって。外には細かな雨が降っていた。目に見えないほどの霧雨だが、舗道は雨の灰色に染まっている。イヤホンをして、YouTubeを開く。高遠先生が以前出ていた文学系シンポジウムの記録映像を再生した。物語論ナラトロジィ構成プロット物語言表レシ遠近法的パースペクティブ消失点、概念的コンセプチュアル力量、非人間的概略性ジェネラリティ超越的トランスセンデンス作用、語り手ナレーター…。先生の言葉を聞いているうちに駅につく。山手線をひとまわりして、古着屋を冷やかそうと思っていただけだったのに、気づいたら新幹線のきっぷを買っていた。気づいたら、なんて本当はうそだ。買いたいから買った。でもなんで買いたいのかは自分でもよくわからなかった。