成瀬は天下を取りにいく

成瀬は天下を取りにいく

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 『オカアサン』からの着信履歴は、20件を超えていた。
 夏生は夏休みにも帰省せず、ひとり暮らしの部屋に引きこもってUber Eatsで頼んだタピオカミルクティーをひとり飲む日々に飽き飽きしていた。
「コロナ収まってもいないのに対面授業に戻すなんて、大学はなに考えてるの。あんた、もうそんな大学辞めて地元さ戻ってきなさいよ」と『オカアサン』は言った。「大学生なんてどうせ飲み会ばっかり行って、ろくに勉強もしないでクラスター起こすに決まってるんだから。いまは国家の緊急事態なのよ。学びも大事っていうけどねえ、命より大事なものはないでしょ? 夏生、ちゃーんと手洗いうがいしなさいよ」
 まくし立てられるまま相槌を打ちつづけて、ひどく疲弊したころ、電話は切れた。母と話すといつもこうだ。「わたしは対面授業がはじまるのが楽しみなんだよ」という、ただその一言が口に出せなくなる。
 後期授業から、学科の専門科目のみ対面授業を再開すると通達がきたのは夏休みが終わる2週間前のことだった。
 全国的には第2波がどうとか言っていて、文科省としては各大学の判断に任せるという方針らしかった。オンライン授業を継続する大学も多かったけれど、うちの大学は学生からの学費返還要求デモが起こったのもあって、このタイミングで対面授業再開が決定された。
 対面授業がはじまるよろこびを胸に、高遠先生に電話してみたが、珍しく留守電になった。翌日には折り返しの電話があるものだと思っていたのになかった。2日後に連絡してみても、留守電になった。そうして、それから1週間、先生と連絡がとれなかった。
 1週間、深く眠った。本当に夏バテしたみたいだった。電話のベルも雨音も耳に入ってこないような重い眠りだったけれど、夏生は眠りの奥のところでずっと先生の電話を待っていた。薄曇りの冬に外を歩いているような永遠に灰色がつづく熟睡だった。電話が鳴ったとき、外はひどい雨が降っていた。出ると、先生が夏生の名前を呼ぶのが聞こえた。
「水を送ろうと思うんですが、いまは帰省していますか」
 電波が悪いのか声は途切れながら届き、まるで声の表情がわからなかった。夏生は答えながら、ああ、明後日から授業がはじまる、と思っていた。心が浮き上がる心地がした。世界が白飛びして、意識が定まらない。先生の気を引きたくて、「祖父のお墓参りに行ったんです」と話すと、先生は「はい、はい」と相槌をうってくれた。彼の相槌を聞いていたいがために、夏生は祖父の蔵書にあったプルーストの最初期作品の翻訳初版のありかも、実家の細かい住所まで話しつくした。
 夏生の話を最後まで聞いてくれて、先生は「では、お送りしますね」とやわらかく言って、電話を切った。夏生が「明後日、会えるの楽しみにしてます」と切れる寸前にひといきで発した言葉は、おそらく先生の耳に届かなかっただろう。スマホには高遠先生の番号が静かに表示されているのみだった。
 そして、2日後、高遠先生は授業にあらわれなかった。

   3

 マスクの内側、頬に触れる部分が痛い。外してスマホの内カメに顔を映すと、皮膚のこすれたところが赤くなっていた。とたんに気分が下がる。カバンを漁ると、実家から送られてきた不織布の白いマスクが入っていた。顔がデカく見えるから絶対につけたくない。
 今日はやっと、高遠先生に会える日なんだから。
 教室の前列にはいかめしいほどに気合いの入ったメイクをした女子が並んでいた。後期授業初日、夏生たちにとっては大学入学以来はじめての対面授業だった。「共通科目(仏文学Ⅱ)」。後ろから埋まっていく講義室の一番前の列には【tktoセラピー分室】のメンバーがそろっている。
 教室は冷房をつけているのに換気のため窓は全開で、机一台ごとに除菌アルコールの噴霧機が置かれていた。講義室の前には検温機。至るところにアルコール消毒スプレー。学生は椅子を一つずつ空けてソーシャルディスタンスの確保を。厳粛な感染対策がなされた学舎は滅菌室のようで、対面授業再開をよろこぶには厳かすぎた。
「ね、アレ沙也加だよね? 偽物じゃないよね?」
 となりから柚愛が話しかけてきた。Instagramとリアルの距離感でリアルが同じタイプらしく、初対面なのにいつメンの友達と話しているみたいな口調だ。柚愛の視線を追う。沙也加が教室に入ってくるところだった。
「よっ」と柚愛が手を挙げる。「よっ」と沙也加も応えた。
「えーっ、背高いね。何センチ?」
 夏生が驚いた声をあげると、沙也加は苦笑して首を傾げた。
「175センチ。それ聞かれるの今日4回目だよ。あたしってそんな背低そう?」
「低そうっていうか…え、ほんとに沙也加ちゃん? 偽物じゃなくて?」
 さきほどの柚愛と同じことを聞く。「ほんとに沙也加ちゃんですよ」と彼女は学生証をこちらに見せて言った。
 みんな、パソコン画面で向き合うのとはやっぱり印象がちがった。マスクで顔が半分隠れているし、立っている姿を見ると縮尺が変な感じがする。柚愛は近づいて見るとおでこに一面ニキビができているし、沙也加はガーリー系の化粧と服のわりに背が高い。夏生も周囲に「意外とハンチング帽が似合う」とか思われているのかもしれない。
 チャイムが鳴り、みんなが席につく。ひとつ空けたとなりの席同士でしゃべる小さな声が講義室の方々から聞こえる。立体的な空間に身を置くのは久々な気がした。zoomでの授業は結局平面と平面の交わりでしかなくて、へだたりがあった。へだたりはやさしさでもある。物理的に傷つけたり傷つけられたりしない遠さがあるから。でも。夏生は講義室を見渡して、頬をゆるめた。放流された魚のような、西を見つけた太陽のような、しっくりとくる実感があった。
「柚愛、気合い入れすぎでしょ」
 沙也加が小声で言う。スマホのカメラを見て前髪を整えながら柚愛が返事をする。
「そりゃそうでしょ、リアルだとかわいくないんだって思われたくないし」
「リアル『だと』?」
「ハア?」
「ウソウソ。高遠先生は思わないよそんなん」
「わかんないじゃん、人がなに考えてるかなんて。聖人君子じゃないし」
「そうだけどさー。意外とそこは夢見てない…」
 リップを塗りなおしていた沙也加の声が止まった。講義室の扉が開く。
 前列の女子たちの視線が一斉にドアのほうに向かうのがわかった。沙也加がダイヤモンド型のマスクをきっちり鼻筋にあわせてつける。
 スーツ姿の小柄な女性が、前傾姿勢で講義室前のスクリーンを横切り、講義台にあったマイクを手に取った。居心地悪そうに教室を見渡す。「あー、あー」とマイクにささやいて、手元のスイッチを操作した。夏生は心許なくなって、スマホを握りしめた。
「えー、副手の矢谷やたにです。本日の仏文学Ⅱは講義担当の先生の都合で休講となりました。せっかくきていただいたのにすみません―」
 繰り返しアナウンスする副手さんの声が遠くなる。ぱんぱんに膨らんでいた期待の風船が、しぼんでいく。副手さんはホワイトボードに大きく休講、と書いて、また申し訳なさそうに前傾姿勢になって講義室を出ていった。手元のスマホが震える。見ると、いくつも通知がきていた。【tktoセラピー分室】だ。
「たかと〇〇〇〇」
「体調不良かな? だいじょうぶかtkto」
「あたしの勝負下着が…」
「↑勝負すんな」
 通知欄でメッセージを流し読みして、顔をあげると、柚愛がこちらをみていた。下がり気味に描かれた眉をさらにハの字にしている。「残念」と口を動かそうとして、マスクの尖った繊維に触れた肌が、痛んだ。