翌朝、冷蔵庫を開けると、昨日頼んだタピオカミルクティーが入っていた。タピオカブームは4月くらいから下火になっている。5月の連休が明け、日本中の雰囲気が殺伐としているいまは、タピオカなんてだれも飲んでいない。なんでこんな流行遅れのタピオカミルクティーなんて頼んだんだっけ、と考えて、思い出した。東北の地元にはタピオカ専門店が一軒もなくて、上京したら絶対に飲むと決めていたからだ。
 東京の大学に入学したら、Francfrancみたいな女の子がときめく家具でそろえた部屋に女友達を泊めて修学旅行みたいに恋バナして、新歓コンパで未成年飲酒して、文壇批判をぶってる鼻持ちならない2個上の先輩とワンナイトして、学科の研究室に入り浸って教授となかよくなって、4年経ったら教授のコネで外資系の総合職に滑りこむんだと思っていた。
 それらはひとつも叶わないまま、5月も中旬に差しかかっている。夏生は毎日、祖父を喪った悲しみとホームシックと未来への不安(もうすでに4年後に訪れると言われている就職氷河期にまで考えが及んで、眠れないときまであった)に泣き暮らしていた。
 翌週の大学の履修面談の日、東京での累計感染者数が5000人を超えた。来週から1か月半遅れで、全面オンラインで授業がはじまると予告されていた。大学進学を機に奮発して買ったMacBook AirにZoomをインストールし、オンラインで履修面談のルームに入る。
 待機していた先生はメガネを鼻の頭まで下ろして俯いて本を読んでいて、夏生が入室してきたことに気づくと顔を上げた。30代くらいの男性に見えたけど、画面だと若く見えるから、年齢はもう少し上かもしれない。
「ぼくも『異邦人』で卒論を書いたんです」
 その人は言った。画面を分割するようにして表示された彼の顔の下には『高遠真輔たかとおしんすけ』という名前があった。夏生ははじめなにを言われているのかわからず、昨日母から聞かされた祖父の卒業論文の話を思い出して、なんで知っているんだろう? と見当外れなことを考えていた。「入試の小論文、すばらしかったですよ。本当に感動しちゃったなあ」と言われ、ようやく、大学入試の小論文でカミュの『異邦人』を取りあげたことを思い出した。
「ムルソーと他者の間に生じる存在論オントロジィ的な次元ディメンションの深淵についてはブライアン・フィッチがすでに論じていますが、ここに『手』という具体物を見出しての論考というのは新しい、と捉えられることが多いでしょう。ヴァン・デン・フーベルの述べた同一化アシミレイションとも違う視点で、たいへん勉強になりました。つまり記号論シンボロジィ的倒置関係がここに生じていて、構造主義ストラクチャリズムの体系が…」
 彼の言葉は半分くらい意味がわからなかった。入試で小論文になにを書いたのかもあまり覚えていないから、自分の小論文の話をされている気はまるでしない。けれど、夏生はその意味のわからなさが、無性にうれしかった。祖父も、こうだったから。
「小説最終章の激昂においても手が実存エグジスタンスに関わるものとして描かれているというのは、東北のほうの…あれはどこだったか、教授も指摘されていたところですね。この非線上リニア的な物語言表レシの立ち現れ方にこそ…だいじょうぶですか?」
「え?」と聞き返した声が鼻声で、夏生は自分が泣いていることに気づいた。Zoomの画面に映る自分が、動揺した様子で、手で顔を隠す。目の中心から溢れでた涙が、頬にひとすじ伝った。あごを拭うと、手に冷たい感触があった。
「あ、これは、ちがうんです」
 夏生はあわてて「ほんとうに、ちがうんです」と言い募った。嗚咽が混じって声が掠れる。すっきりとしない涙が流れるばかりで、ちっとも止まらない。オンライン面談中じゃなかったら、枕に顔をうずめて声にならない声で叫びたかった。
「思い出しちゃって。なんでもないんです、ほんとうに、なんでも」
「だいじょうぶ、落ち着いてください」
 高遠先生が声をかけてくれる。高遠先生の背後には大量の洋書が差さった大型の本棚があり、先生は濃紺のジャケットにワインレッドのネクタイを合わせていた。それは背広と呼ぶよりジャケットと呼ぶほうが似合う、おしゃれな上着だったけれど、やっぱり夏生はそれにさえ祖父を重ねてしまった。
…祖父もおんなじこと、言ってて」
「お祖父さんも?」
「はい。『異邦人』はカミュの最高傑作だって」
「フランス文学を専攻されていたんですか」
「はい、東北大の教授で…文学のことは祖父がぜんぶ教えてくれたんです」
「東北大で! それはすごいですね。その、お祖父さまは…」
 高遠先生が聞きづらそうに語尾をしぼませる。画面越しとはいえ、これだけ目の前で泣かれたら察するものがあるのだろう。
「亡くなりました」
 夏生はすっぱりと言った。視界がまたにじむ。
「コロナで。まだ70歳で、疾患もなかったし、はじめはそんな心配しなくていいって言われてて、でも突然…。入院する前に止められても帰ればよかった。もし感染しても、会いに行けばよかった。ずっと、後悔してます。でも、わかってるんです」
 Zoom越しの高遠先生の表情は、涙で見えない。対面じゃなくてよかった。こんなブスな泣き顔、だれにも見せられない。夏生は涙を必死に拭って、「東京の大学にこなきゃよかったなんて、思っちゃダメだってわかってるんです」と打ち明けた。「学費は祖父に出してもらって、親にも最終的には進学を応援してもらえて…わたしがやりたいって言ったことだから。後悔なんてしちゃだめなんです。憧れたこと自体がまちがってた、でも…」
「夏生さん」
 ずっと、黙って聞いてくれていた先生が、名前を呼ぶ。はっと顔をあげた。先生は静かに夏生を見つめていた。
「『ボヴァリー夫人』ってお読みになったことはありますか?」
「え、ないです」
「ぼくのような近代作家の研究者が、19世紀のフローベールの作品を薦めるというのも変な話ですけど、ぼくは『ボヴァリー夫人』は好きでね。エマという女性が、田舎の平凡な結婚生活に飽きて、華やかな世界に憧れ、不倫や借金をして破滅していく話。これはロマン主義的な憧れが敗れていく、ヌーヴォーロマンの先駆け的な位置付けの作品、といわれているんですが」
「はい」
「この作品を、人間の自由さを書いていると捉える人もいるようでね。憧れに取り憑かれたエマは自殺するんですが、それでも憧れたことそのものにおいて彼女は幸せだっただろう、という読みが成立しうるわけです」
…はい」
「ウン、つまり、きらびやかな大学生活に憧れることはまちがっていないし、弱音は吐いていいってコトです」
「先生…」
「夏生さん」と高遠先生は夏生の名前をもう一度呼んでから「あっ、同じ苗字の人がいるから下の名前で呼んでしまったんですけど、いやだったら苗字で呼ぶんですけど、いやに決まってますよね、すみません、配慮が足りていませんでした、本当に他意はなくてですね、セクハラをするつもりは毛頭ないんですが」と焦った様子でつけ加えた。夏生は「いいです、夏生って呼んでください。同じ苗字がふたりいたら、ややこしいでしょう」と笑って言った。
 そのあとすぐ、履修計画書を確認してもらって面談は終了した。zoomの画面が暗くなったと同時に夏生はAmazonで『ボヴァリー夫人(上)』をポチった。