猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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「さらに、男と妻の異常な性欲がグロテスクに描かれていますな、これは不健全です」
「性欲がグロテスク…それが引っ掛かりますか」
「公序良俗を乱しますから」
 太郎の中で、何かががたりと外れたような気がした。
「失礼ですが吉永さん、私の作品を他にもお読みですか?」
「読んでますよ。私は図書課の江戸川乱歩担当です」
 どこかうんざりした口調。太郎はお構いなしである。
「性欲がグロテスクな作品なら、他にもあるでしょう。『人間椅子』はどうでした?」
「えっ?」
 吉永は意外そうに目を細めた。
「あれは、まあ…」
 思えばなんと不謹慎な作品ばかり書いてきたのだろうと、今さらながらに自分が嫌になってきた。健全な少年ものを書き続けていると創作態度も変わってくる。
「『蜘蛛男』はもっとまずい。裸の女の死体がわんさと出てくる。ああっ、『むし』もだ! あれは本当に、なかったことにしたいくらいの小説です。あれもこの際、全編削除にしてしまいましょう」
「ちょ、ちょっと待ちなさい」
「ああ、他にもたくさんあるような気がしてきた。いやむしろ、少年探偵団以外は全部じゃないか? 変態性欲ばかりの、なんて愚かな作家もどきだ、私は…ああ…ああ、はっ、はっ、…」
 過呼吸になってきた。目の前がくらくらしてくる。
「落ち着いてください、江戸川さん!」
 入ってきたときの意地悪そうな感じはどこへやら、吉永は太郎の背後に回り、背中をさすってくれた。
「気をお確かに。私は、少年探偵ものは面白く拝読しています」
「面白いって言ったって、あんなその場その場の、子ども騙しの…ああ、そんなものしか評価されない。私はこれからどうすればいいんだ」
「間諜なら書けるのではないですか? 敵の中枢へ潜っていって情報を盗み、基地を破壊する、そういう物語なら喜ばれますし、戦地の兵隊に配ることもできます」
「そうか…しかしそれは先におしまいまでの筋を考えて書き始めなければいけないでしょうな、やっぱり」
「そういう専門的なことは、わかりかねます」
「そうですか。いや、ありがとう…考えてみます」
「ご健闘を」
 取り締まるはずの検閲係に励まされて警保局をあとにしたその日のうちに、太郎は自ら五冊の文庫本を選び、絶版にしてくれるようそれぞれの出版社に連絡したのだった。
 仕事はもはや、講談社の少年もの一本になった。しかも犯罪を描くのはよくないという理由で怪人二十面相は消え、少年が宝さがしに行くという冒険ものになっていた。
 やる気は、すっかり失われていた。そもそも、探偵小説が世の中に求められなくなっていた。
 街から華やかな流行歌は消え、聞こえてくるのは高らかな軍歌ばかり。兵隊ごっこをする子どもたち。節約に頭を悩ませ、足元を見て歩く主婦たち。世界のすべてが灰色にくすんでいる。

 昭和十五(一九四〇)年の夏、八月も後半を迎えたある日の夜八時すぎのこと。
 電気をつけるのは贅沢なので、このところは夕方に粗末な食事をとったらすぐに眠ることにしている。以前のように夜通し原稿用紙に向かうなど考えられないことだった。
 蚊帳の向こう、戸は開け放たれ、庭からは虫の声がさやかに聞こえていた。
 どん、どん、どん! 突然、何かが叩かれる音がした。
「なんです?」
 隆子がはね起き、次いで隆太郎も部屋から起きてくる。
「憲兵かも。父さん、何やったんだよ?」
 十九になったわが息子は何かにつけて上から物を言うようになっている。
「見てこよう」
 以前書いた小説が何かに引っかかって逮捕されるのだろうか。それなら仕方あるまいと、太郎はそんな気持ちになっていた。ランタンに火を入れ、玄関を出る。
 曲がりなりにも、金のある時に建てた邸。玄関から閉め切られた門扉までは距離がある。
「どなたですか?」
 門扉越しに訊ねると、叩く音は止まった。
「ヒライサーン、アケテクダサーイ」
 くぐもった、かすれたような声だった。憲兵ではなさそうだ。太郎はかんぬきを外し、門扉を開き―ぎょっとした。
 ランタンの光に照らされたのは、不気味な白い顔だった。表情がない、皺すらない、卵のほうがまだ凹凸があるのではと思われる、つるんとした真っ白な坊主の顔。
「オヒサシ、ブリデース」
「ひっ」
 太郎は身震いする。
 相手の身長は乱歩より頭一つ大きい。和服である。だが胸元に豊かに胸毛が生えているのが見える。四肢は長い。
 よく見れば、首に筋があり、そこから皮膚の色が変わっている。太郎はようやく理解した。マスクだ。ゴムか何かでできた白いマスクで、頭部をすっぽり覆っているのだった。戦地で顔に大やけどを負った兵が被るのだと聞いたことがあるが、しかし、太郎の知り合いにそんな怪我を負った者などいない。
「ど…どなたです?」
 もう一度訊ねる。すると、
「ヒライ、タローサーン。ボクデスヨー」
 またかすれた声が返ってきた。そして彼は顎に手をやり、その気味の悪いマスクを、べりべりと剥がしていったのである。

(つづく)
※次回の更新は、6月7日(金)の予定です。