猫河原家の人びと

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「センポくん」
 平井ひらい太郎たろうに話しかけられたのは、広田邸に向かう途中の汽車の中でだった。交渉会議が始まってからすでに三か月が経とうとしていた。
「あ、平井さん」
 口をついて出たのはそんな間抜けな挨拶だった。
 彼の顔を見た瞬間、川島かわしま芳子よしこのことを思い出したのだ。続いて、犬沢いぬさわの謀略。満州国などという関東軍に操られた国の一員として働いていることを、漆喰の壁に塗り固めるようにして、自分自身にも隠してきた。その壁が、太郎の顔を見た瞬間、一気に崩壊したのだ。
「久しぶりだな。前に座ってもいいか」
「どうぞ」
 平静を装い続けたが、そのあと下車し、鵠沼を歩いているときに何を話したのかまったく覚えていない。平井にだけは悟られたくなかった。広田邸への途上で広田大臣に偶然会った時には救いを感じたものだ。
 ところが思いがけず、広田は江戸川乱歩を知っていた。それどころか興味深げに探偵小説について話をした。その顔を見ていてまた、川島のことを思い出す。
 広田大臣が去った後の、太郎との会話は最悪だった。彼は小説に行き詰まっているようだったが、千畝に受け止めきれる余裕はなかった。そればかりか、今の自分を立派だと評する彼を疎ましくさえ思った。
「私たちはもう、会わないほうがいいのかもしれませんね」
 外交官の道を開かせてくれた男に、千畝は言い放った。
 決別のための再会だった。そう、自分に言い聞かせた。鵠沼駅を目指す千畝の心の中、経文のように繰り返されるのは、岩井いわい三郎さぶろうの第三の教えだった。
 けして親しい友人など持たぬこと。けして親しい友人など持たぬこと。けして、親しい友人など…持たぬこと…。

 以後、千畝は買収会議にいっそう力を入れるようになった。
 折り合いのつかない交渉に突破口をあけてくれたのは、意外なことにハルビンに残してきたクラウディアだった。彼女が送ってきた手紙に、「再会した古い知り合いの旦那が、北満鉄道で貨物の管理をしていた」と書かれていたのである。その旦那さんに、列車の台数と使用年数、レールの修繕の記録など、北満鉄道の老朽化に関する情報を中心に聞いてくれないか―千畝がそう書くと、しばらくして返事があった。
 くだんの男性は几帳面な人物だったと見え、手紙にはかなり正確なデータが同封されていた。客車、貨車、レール、駅舎、すべてが、ソ連の申告してきた状態と大きく開きがあることがわかった。
「これは、私が信頼する筋から得た情報です。あなた方代表団は、ご自分の管理する鉄道の状況も把握していない可能性がある。ご提示いただいた価格が適正とは認めかねます」
 強気で仕掛けると、ソ連の代表団は顔を見合わせ、目を白黒させた。チウネ・スギハラの緻密な情報網のうわさはソ連代表団のあいだにも広まっているようだった。
「あー、それでは再度、私どもの同志に調査を要請し…」
「交渉が始まってすでに一年以上が経つのです。今さら調査しても、その信用度はいかばかりのものか」
 千畝の勢いに押されるように、以降ソ連は値段をどんどん下げていった。
 そして、一九三五年三月、ついに譲渡額の折り合いがついた。最終決定額は一億四千万円。ソ連が初めに提示した額の実に五分の一であった。
 千畝の働きはもはや、通訳の仕事の範囲を大いに超え、立役者といっても過言ではなかった。新聞にはその名は記載されないので一般的に知られるわけではなかったが、外務省はもとより、政府関係者の中では有名になった。
「満州国は君に、破格のポストを用意するかもしれないよ」
 下関から大陸へ向かう船のデッキでうねる波を共に見ながら、大橋次長は上機嫌で千畝に告げた。
「いえ、私など…」
 千畝は言葉を濁す。
「まあいい。今は奥さんに会いたいだろうから、しばらくハルビンに帰って休みたまえ」
 大橋には謙遜に見えただろう。千畝はつくづく、疲れていた。これからのことについて、一つ、思うことがあった。
 結局、帰途ではそれを曖昧にし、千畝は新京に戻る大橋と別れてハルビンへ向かった。

(つづく)