第五話 満州国と二十面相【4】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

清朝最後の皇帝・溥儀が姿を消した。このとき千畝の脳裏に浮かんだのは、犬沢と川島芳子の顔。痛恨の思いがよぎる。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     四、

 一九三二年三月一日、満州国が建国宣言をした。それは同時に、外交官・杉原すぎはら千畝ちうねにとっての矛盾の日々の始まりだった。
「満州国外交部に転属が決まった。杉原、お前も一緒に来い」
 総領事執務室に呼び出された千畝は、大橋おおはし総領事からそう告げられた。
「私が、満州国に?」
 満州国は「五族協和」をスローガンとする国である。五族とは満州人、日本人、漢人、モンゴル人、朝鮮人を指す。しかしそれはあくまで表の顔であり、実態は、日本国―関東軍が実権を握る傀儡国家。当然、役所の要人には日本人が登用されるのだった。
広田ひろた駐ソ連大使から、喫緊の任務を預かった。北満鉄道の買収交渉だ」
 ハルビンから北、ソ連との国境まで伸びる鉄道だった。そもそもロシアが敷設した鉄道であり、現在でも管理はソ連が行っているが、今や「満州国内」になったその鉄道は満州国が買収してしかるべきである、という理屈らしかった。
「当然ソ連は難色を示しているが、連中も関東軍との軍事衝突は避けたいらしく、値段次第では売ってやらないこともない、と言っているそうだ。交渉にはロシア語にけた人材が必要だ。君ほどソ連に詳しく、ロシア語を流暢に話せる人間を私は知らない。一緒に来てくれないか」
 大橋総領事は冷静さと大胆さを持ち合わせた、千畝が知っている歴代ハルビン総領事の中で最も尊敬できる上司だった。
…ありがとうございます」
 関東軍が無理やり作った満州国に雇われるのは不本意だったが、大橋の抜擢なら従わないわけにはいかなかった。所詮は役人なのだ。
 クラウディアと義母も喜んでくれ、千畝は二人をハルビンに残し、外交部総務司長となった大橋の書記官として新京に赴任した。
 千畝にとって幸運だったのは、広田弘毅こうきと知り合えたことだった。
「おお、君が杉原千畝か、会いたかった」
 目が小さく、クマのぬいぐるみのように愛らしい顔をした、背の低い人だった。千畝の手を握り、千畝がかつてまとめた『「ソヴィエト」聯邦国民経済大観』の感想を次々と述べた。
「あのあともまた、ソ連について独自の調査を進めていると聞いているよ。君がいれば百人力だ」
「いえいえ、そんな…」
「重要なのだよ、北満鉄道は。ソ連が国力を増強しつつある今のうちに買収して、首尾よく不可侵条約を結んでしまわなければ。関東軍とソ連軍が軍事衝突することだけは避けなければならない」
 広田もまた、関東軍の増長をよく思っていなかった。他民族が入り交じり、それぞれの思惑が拮抗しあう満州においては、勢力の均衡に心を砕き、対話と折衝によって平和を維持すべきだと考えていた。
 そうだ、と千畝は思った。
 外交官なら、この人のように考えなければならない。軍人に騙されたくらいで打ちひしがれていてはいけないのだ。
 かくして、一九三三年の六月より、北満鉄道の譲渡額交渉会議が始まった。場所は東京、外務次官官舎である。満州国代表は駐日公使のてい士源しげんと、外交部次長に就任した大橋忠一ちゅういち。千畝は通訳としての参加だった。ソ連の代表はみな、岩のような巨体だった。彼らが提示してきた北満鉄道の対価は六億二千五百万円、対する満州国が用意した額は五千万円。双方の額にかなりの開きがあった。
「彼らがふっかけてくるのは予想通りだよ」
 初日の会合が終わった後、大橋は千畝に微笑みかけた。
「ここからが君の腕の見せ所だな、杉原」
 時を同じくして、駐ソ連大使だった広田弘毅が外務大臣に就任した。普段は鵠沼の別荘にいる広田は、千畝を指名して報告に来させた。
「よく来た、まあ入りなさい」
 千畝が行くといつも広田は柔和な顔で自邸に上げてくれた。ソ連との買収額交渉は思うようには進んでいなかったが、広田はもともと一年はかかるだろうと踏んでいた様子だった。それよりも、軍部の暴走を許してはいけないということを熱く千畝に語った。昨年五月に犬養いぬかいつよし首相が海軍将校の凶弾に倒れて以来、政府要人が軍部を恐れるようになっていることを、広田は嘆いていた。顔つきは穏やかだが、命がけで政治をしていることを千畝は心にしみて感じた。