猫河原家の人びと

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 その夜、九時五分前に《ディリフィーン》へ行くと、店の前で彼は待っていた。
「こんばんは」
 まるで昨日も会った友人のように、彼は告げた。
「初めて会ったのは春でしたね。もう、息の白い季節になった」
「清王朝の復活…初めから、これが目的だったんだな」
 震える声で言うと、犬沢はニヤリと笑った。
「そんなに怖い顔しないでくださいよ」
 頬の傷が、笑い顔を醜く歪めている。
「杉原千畝の情報網の緻密さは、われわれの耳にも届いていた。たかだか外務省の一役人なのに、ハルビンを取り巻くあらゆる層に情報網を構築していると。政府にとっちゃ宝でしょうが、現場で自由に国益を追求したい我々にとってはいささか邪魔だったんです」
 植民地は欲しいが、あからさまな侵略活動を行えば欧米諸国を敵に回す。そこで関東軍は、国を失った満州人を焚きつけて独立国家を作らせ、その実権を握るという作戦に出た。
「もちろんこれは、弱腰の本国政府には内密の計画です。外務省に感づかれて頓挫させるわけにはいかなかった。情報通のあなたの気を、関東軍および満州人組織から逸らす必要があったのですよ」
 千畝を篭絡ろうらくする役に抜擢された犬沢は「友好的な関東軍兵士」の仮面をかぶって千畝に近づき、あたかもすべての有用な情報を流しているように見せ、ソ連の危険性をあおったのだ。
「わざわざ川島君にハルビンに来てもらった甲斐がありましたよ。あなたはソ連に注意を向けてくださり、我々は邪魔されることなく計画を遂行できた」
 はっはは、と白い息で彼は笑った。
「しかし案ずることはありません。満州には肥沃な大地と何百万人規模の市場がある。新国家は日本を豊かにするでしょう」
「それは、植民地と一緒だ!」
「ええそうですよ」犬沢は肩をすくめた。「何がいけないのです? この世界的不況下で、正義が腹を満たしてくれますか。昼間の歓声を聞いたでしょう。新聞各紙もこぞってわが軍の行為を称えています。関東軍こそ、日本国民全体の代弁者ですよ」
 居丈高なその男に向かい、今の千畝はあまりにも無力だった。憐れむような顔で、犬沢は言った。
「すべて嘘だったと思われるのは心外なので申し上げますが、川島君が江戸川乱歩の愛読者だというのは本当です。私も読みましたよ、『魔術師』。かっこいいですねえ、明智小五郎。常に相手の心理を読み、仕掛けをあらかじめすべて潰してことを有利に進める」
 そして彼はまた、意地悪く笑った。
「あなたは明智小五郎にはなれませんね、杉原さん」
 くるりと背を向け、犬沢は歩き出す。雪の闇に消えていくその背中を見つめる千畝の胸に浮かぶのは虚脱感、そして、岩井いわい三郎さぶろうが言っていた探偵の極意だった。
 一つ、粘り強く、忍耐を忘れぬこと
 二つ、あらゆる階層から情報を求めること
 三つ、けして親しい友人など持たぬこと、、、、、、、、、、、、、、、―。

(つづく)