猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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 四人掛けの席に一人で腰かけ、横溝の言葉を頭の中で繰り返しながら窓外を眺めている。通り過ぎていく家々。日本各地を放浪してきたが、まだまだ訪れていない町はたくさんある。その町の人の中にも、江戸川乱歩の名を知っている者はいるだろう。数々の雑誌や新聞に連載をしてきた。全集も出した。江戸川乱歩は有名な作家だと認識している人も大勢いるだろう。
 それがどうしたのだ、と思う。幸せなどではない。
 底なしの洞穴に落ちていくような思考が途切れたのは、目の前に座った客のせいだった。横浜駅で乗ってきたときからこの四十ばかりの男はぶつぶつ独り言をいいながら駅弁を食い始めたが、すぐに食事を終えると大いびきをかいて眠り始めたのだ。
 いくら暗鬱な気持ちでいたって、他人のいびきは不快である。太郎は立ち上がり、空席を探して歩きはじめる。車両を一つずれたところで、
「ん?」
 連結部のすぐ近くに座っていた男の顔をまじまじと見つめる。難しい顔をして、書類を食い入るように見つめている。書類が外国語、おそらくロシア語で書かれていることが、太郎に確信を与えた。
「センポくん」
 彼は顔を上げた。顎と頬のあたりに肉はついたが、その切れ長の目は間違いなかった。
「あ、平井さん」
「久しぶりだな。前に座ってもいいか」
「どうぞ」
 思いがけない再会に太郎は少し、楽しくなった。杉原すぎはらの態度は淡々としたものだった。
「外務省の用事で帰国したのか」
「今は外務省ではなく、満州国の外交部に所属しています」
 思いがけない答えに太郎は「ほう」と言った。
 満州国―昨年、昭和七年に大陸に建国された国家である。少し前に滅亡したしん国の最後の皇帝を元首としているが、その実権は日本にあるという。東アジアの民族の誰もが幸せに暮らせる国、などと宣伝されているが、その実態はよくわからないというのが太郎の周りの人間のおおむねの評価であった。
 外交部というのは日本における外務省の、満州国での呼び名らしい。日本政府が主導で行政が組織されているため、その役人もまた日本から選ばれたという。杉原はその外交部で目下、北満鉄道をソ連から買収する交渉団に所属しているのだそうだ。
「交渉の会議は東京で開かれているのですが、金額の折り合いがつかず、長引いています」
「そうなのか。…しかしなぜ、東海道線に乗ってるんだ?」
「昨日行われた会議の報告を外務大臣にするためです」
「外務大臣?」
広田ひろた弘毅こうき閣下です。外相になられたのはつい最近ですが、前々から目をかけていただいています。『私への報告は杉原が来るように』と指名されてしまいました」
 広田外相は鵠沼くげぬまの別荘で過ごすことが多いので、こうやって日帰りの小旅行をするのです、と杉原は言った。
「鵠沼か」
 太郎の脳裏に、一度行ったことのある江の島の光景が浮かぶ。
「一緒に行っていいかね」
「外務大臣のところへですか?」
「いや、最寄りの駅までだ。どうせゆく当てがないからな。今日はそこで宿でも探そう」
 杉原は軽くうなずいた。そしてまた、手元のロシア語書類に目を落とす。
 ずいぶんと立派になったものだ―初めは感心していた太郎だが、黙々と資料を読み続ける杉原の雰囲気が次第に気がかりになってきた。初めて会った時から生真面目な印象があったが、もう少しはつらつとしていたものだ。会話も前はもっと弾んでいた。そういった意味では、だいぶ変わってしまったようだ。
 当たり前だ、ともう一人の平井太郎が言う。
 早稲田の三朝庵さんちょうあんで会ったときは、二十四歳と十九歳だったのだ。それが今や三十八歳と三十三歳だ。変わっていないほうがおかしい。
 二人の間に、会話はなかった。共に藤沢駅で小田急線に乗り換えるあいだも、ずっと黙っていた。
「そういえば、新聞に小説が載っているのを見ました」
 本鵠沼駅の改札を出て歩きはじめたとき、ようやく杉原のほうが口を開いた。
「どの新聞だ? 朝日新聞か?」
「いえ、ハルビンスコエ・ヴレーミャというハルビンの新聞です。ロシア語で書かれた『エドガワ・ランポ』の文字を見たときには、驚きました」
「ああ…そういえば二年ほど前に、ハルビンにいる日本人からロシア語訳して掲載させてほしいと手紙が来たな。たしか『魔術師』だな」
「そのようでした」
「ハルビンのことなんて知らないから、何も考えずにタダで許可したんだ。しかし、君の目に留まっていたと思うと、やってよかったな」
 これを聞いた杉原の口角が少し上がった。再会して初めて見せた笑顔だった。
 しかしその後、また杉原は黙ってしまった。読んだのなら感想ぐらい言ってもいいのにと思ったが、『魔術師』もまた忙しさの中で締め切りのために書いた原稿の蓄積なので、振り返るのはつらいかもしれないと、自分に言い聞かせた。
「おや」
 杉原が立ち止まったのは、海が見え始めたときである。彼の視線の先には、民家の塀の前に植わった枯れた向日葵ひまわりをじっと見ている五十代半ばの和服の男性がいた。
「広田閣下ではないですか」
 杉原が声をかけるとその男性はこちらを見た。どこにでもいそうな、どちらかというとおっとりした印象のある顔立ちだった。
「おお、杉原君じゃないか」
「昨日の報告に参りました」
「ふむ。少し浜を歩きながら話そうか」広田は声を低くした。「最近、うちで雇った女中の様子が少し怪しいんだ。変に私の様子を窺っているようでね。こんなことを考えてはいかんが、政敵の間諜かもしれん。外で話したほうがいいようだ」
 ま、半分は冗談だがね、と人懐こそうに笑った。そこで広田は初めて、太郎の存在に気づいたようだった。
「こちらの方は、知り合いかね?」