「情報網だと言っていたね。他の誰よりも早く、必要な情報を得られる、個人的な人脈。それがあれば命が助かることすらあると……人嫌いの私にはますます縁のない話だ」
「情報網ですか」杉原はこくこくとうなずくように聞いている。「なんだかすごく、重要なことを教えてもらったような気がします。会いに来てよかったです、平井さん」
「そうか。それはよかった」
今の太郎には岩井のことなどどうでもよかった。職業作家に必要な名探偵像はどこかにないものか……。
「神戸の客なんて、舞台に向かってミカン投げつけてくるねんで。『ちゃんとした万歳やれや』てな!」
あのうぐいす色の男などもっての外だ。あんな早口で大声の名探偵がいるものか。
「ちゃんとした万歳やったらええやないの。アチャコさんは声が通るからみんな聞きほれると思うわ」
「もう大正十三年やで? モダンの時代やで? 新しいこと始めんでどないすんねん。ああ、しゃべくりだけで人を笑わしたい。一人やのうて二人でよ」
「どっかに同じこと考えてる人、おらんの?」
「ちょっと前、即興で二人でやった相手がおるわ。エンタツゆうて小生意気なやつでな、客にはウケへんかったけど、あれは、楽しかったわ。あいつ今頃どこで何してんねやろ」
とそのとき、観葉植物の陰から唐突に、和服姿の紳士が現れた。
「わっ」
太郎は思わずのけぞってしまった。店がL字になっており、奥にも席があったらしい。驚いたのは人が出てきたことではない。その男の顔を知っていたからだった。
「お勘定を頼む」
その特徴的な声で確信に変わった。杉原に向けて手招きをすると、顔を近づけてきたので耳打ちした。
「神田伯龍だ」
「誰です?」
「有名な講談師だよ。前に彼の『鼠小僧』を聞いたんだが、臨場感がもの凄く、時間がすぎるのがあっという間だった。あんなリズムで小説が書けたら読者を没頭させることができるだろうが、無理だろうな」
「君、ずいぶん声が大きいな。向こうでも聞こえていたよ」
伯龍はうぐいす色の男に話しかけていた。うぐいす色の男もその正体に気づいたようだった。
「いや! 神田伯龍さんやないですか。えろうお騒がせして、すんません。私も芸人やってます、花菱アチャコと申します」
「しゃべくりだけで人を笑わせる。難しい道に進もうとしているな」
「講談師さんの前でお恥ずかしい限りです」
「謝ることはない。しゃべくりだけの万歳、つまり二人の掛け合いで人を笑わせるということだろう?」
「ええ。一人がトンチンカンなことを言って、もう一人がそれにツッコむといいますか、それを速いテンポでやっていくんです」
「それはすごい。見たこともない。ぜひ、見てみたいよ」
皮肉ではなく、本気で言っているように聞こえた。浅草に入り浸っていたことはあるが、大阪の芸人の世界はまったくわからない。しかしそれでも、できるかわからない新しいことを始めようとしているのは自分と同じだ、と太郎は感じた。実績と信頼ある先輩が、その背中を押してくれることのなんと頼もしいことだろうか。
「若い人が新しいことをやらなければ、古い物も継承されないのだ。お嬢さん、これは彼の分の勘定だ」
財布の中から札を出し、女性店員に渡す神田伯龍。なぜすべて左手でやるのだろう……と太郎は疑問に思ったがすぐに分かった。病気なのか、右手が上手く動かせないようだ。以前高座で見たときにはまったく気づかなかった。
若い芸人に激励の言葉をかけ、伯龍は店を出て行った。右足を出すたびに、右肩がひょこひょこと揺れる特徴的な歩き方だった。
ガラス越しに見えるその後ろ姿が、太郎の頭の中に鮮烈に刻み込まれた。
夕方、東京に戻る杉原を大阪駅で見送ったあと、太郎はすぐに家に取って返した。文机の上に原稿用紙を広げ、草稿を書き始める。
万年筆のキャップを外し、目を閉じ、深呼吸。
物語の舞台は決まっていた。東京・団子坂。かつて二人の弟と経営した古本屋である。
季節は――今と同じ九月初旬でいいだろう。同じ季節のほうが臨場感がある場面が書けるはずだ。
目を開いてペンをとり、タイトルを書く。
『団子坂の殺人事件』
語り手は件の古本屋の真向かいにあるカフェの常連。同じく常連客として来るのが、神田伯龍をモデルにした名探偵だ。二人で冷しコーヒーでも飲みながら、古本屋を眺めているとしよう。話題は……やはり探偵小説がいい。ポーか、ドイルか。いや、谷崎にしよう。お気に入りの『途上』がいい。そのうち二人で連れ立って古本屋にでかけ、中で女主人の死体を見つける。……いや、その前に、何か妙な出来事が起きていたほうがいいか。
「あなた」
はっと我に返った。すぐそばに隆子の顔があった。
「晩ご飯、いらないんですか?」
「あ、ああ……もう少しやってからにする」
「新作、《三人書房》の話ですか」
文机の上に視線を落とす隆子。『団子坂の殺人事件』というタイトルが見えたのだろう。太郎は慌てて草稿を手で隠す。
「見ないでくれ」
「別に見ませんよ」
黙って立ち上がったあとで、ふふっ、と隆子の笑い声が聞こえた。
「何を笑ってるんだ」
「いえね。坂手島の母を思い出してしまって」
妙なことを言う妻だ。なぜ今、郷里の母のことなどを考えるのか。
「あなたの居場所がわかったとき、団子坂という地名を聞いて母は『やっぱりお団子屋さんが多いのかしらねえ』って。本当にのんびりした性格なんですよ」
「そうみたいだな」
「ねえ、新作もどうせ、不穏な、殺伐とした事件を描くんでしょう?」
「どうせとはなんだ、探偵小説とはそういうものだ」
「探偵小説の舞台として、『団子坂』っていうのはほのぼのしてやいませんか。東京の地名に明るくない人が聞いたら、お花見のお話かと思うわ」
むっとしたが、即座に言い返せなかった。一理あるかもしれない。
「坂の名前を、もっと怪しい食べ物に変えたほうがいいか。『闇鍋坂』というのはどうだ?」
「そういうことじゃないでしょうに」隆子は呆れている。「もっと怪しくて、謎めいていて、題を見た読者にざわざわとした胸騒ぎを感じさせるような題にはならないのですか?」
「難しいことを言う……」
太郎は腕組みをして考えたが、すぐに閃いてペンを執る。
「こういうことか」
隆子を振り返ると、彼女は腰をかがめ、原稿用紙の上に新たに書かれたタイトルを見た。
『D坂の殺人事件』
隆子は太郎の目を見て、満足そうにうなずいた。
(つづく)