第三話 明智小五郎【5】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

会社になど行きたくない。第一つまらなすぎる。収入が減っても専業作家になりたい―。悶々とする太郎の前に千畝が現れた!

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     五、

 右を見ても左を見ても、役者の名前の書いたのぼりがにょきにょきと立っている。着飾った老若男女が行き交う中、ずいぶんと身なりの立派な紳士の一団が、腰の低そうな男に先導されて歩いていく。
 太郎の横で杉原は、呆気にとられてその様子を見ていた。
「芝居茶屋に向かうんだね」
 太郎は言った。
「なんですか、それは」
「芝居を見る客に、食事や酒を提供する飯屋のことだが、あれは富裕層向けの大茶屋というやつだ。座敷が用意してあって、芝居が始まるまでゆっくりくつろげるのさ」
「はぁー」
 杉原はただただ、目を丸くするだけである。彼が留学に行く前、一緒に浅草を歩いたことがある。芝居小屋が並んでいるという点ではここ道頓堀も似たようなものだが、浅草の小さなガラクタをばらまいたような夾雑きょうざつな感じはない。道頓堀五座という伝統的な劇場を中心に、大阪の人々の純粋な芝居への愛と賑々しさにあふれているのだった。
 東京へ帰る前に道頓堀に行かないかと誘ったのは、太郎のほうだ。僕は別にいいのですとしり込みする千畝ちうねに、名探偵の造形に悩んでいるから人間観察に付き合ってほしいと耳打ちし、無理やり連れてきたのだった。
 人間観察が目的なのは本当である。だがやはり道頓堀に来てしまうと、芝居が気になる。中座は歌舞伎、浪花座は新派、弁天座は活動写真と、一口に芝居といってもいろいろな分野がある。看板に書かれている文字や、掲示されている芝居の筋、役者絵の一つ一つを見て回るだけでも気分が高揚し、気づけば一時間、二時間と、あっという間に時間が経ってしまっているのだった。
「我々庶民向けの芝居茶屋もあるよ、ほら、あそこだ。寄っていくか?」
 道頓堀に足を踏み入れて以来、戸惑い続けている杉原の脇をつついて、太郎は訊いた。
「ええと、芝居茶屋もいいのですが、僕はもう少し落ち着いた店のほうが」
 すぐ近くで、嬌声きょうせいが上がる。芝居小屋の前で若い女性たちが誰かを囲んで騒いでいるのだ。中には卒倒しそうなほどに叫んでいる女もいる。最近人気の若い役者でも出てきたのだろう。こういうところは浅草と変わらないと思いつつ、太郎は杉原を促す。
「わかった。もう少し歩こう」
 人ごみの中を縫うように歩き、戎橋えびすばしのたもとまでやってくる。芝居小屋のあたりほどではないが、やはり人出は多い。そんな中、目を引く洋食屋が一軒、あった。
「あれ、あんなところに洋食屋などあったかな。…センポくん、洋食でもいいかね」
「はい」
 モダンなガラス張りのドアを開いて入る。床こそ石材がむき出しだが、カウンターもテーブルも新しかった。観葉植物が視界の邪魔をして、店の奥がどれほど続いているのかよくわからない。
「いらっしゃいませー」
「しゃあないやろ、やりたくもない舞台に立たされてばっかりいても」
 女性店員の呼びかけを、カウンターに座っているたった一人の客の大声が遮った。あまり見ないうぐいす色の背広に身を包んだ、大柄な男だった。ポマードのようなもので頭髪をびっちりなでつけ、右の首筋にドーランの跡が残っている。出番を終えたばかりの役者だろうか。
 二人席に向かい合うと女性店員がやってきた。二人ともポークカツレツを注文する。
「俺は自信があるねん、ほんま。しゃべくりだけで客を笑わしたい」
 カウンターの中に入った女性店員が奥に注文を通すや否や、うぐいす色の男は再び大声でぼやきだす。
「せやったら、やったらええやないの」
「やるなと興行主が言うんや。ここんところは客足もめっきり少のうなってな、新天地もそろそろ終わりや。貧乏神ついとるで」
「そんなこと言うもんやないで」
 なかなか面白そうな話をしている。耳を傾けようとしたところで、
「名探偵にふさわしい人は見つかりましたか?」
 杉原が訊ねてきた。
「いや。人間観察は普段から得意なつもりなんだが、やっぱり道頓堀に来ると気もそぞろになってきてしまってね」
 頭を掻く。ふっ、と杉原は笑った後で、また質問を重ねてきた。
「平井さんは、本物の探偵に会ったことはないのですか?」
「あるよ」
 太郎は即答する。
「あれは大学の四年だったか、もしくは卒業したあとだったかもしれないが、新聞記事で『探偵を求む』という広告を見てね、いてもたってもいられず面接に行ったんだ。あれは日本橋区の…どこらへんだったかな。岩井三郎さんという有名な探偵でね」
 常に人を品定めしているような岩井の目を思い出しながら、平井は言った。
「その人をモデルにしたらいいんじゃないですか?」
「いやいや、ダメなんだ」太郎は笑いながら手を振った。「外国の探偵小説を読み漁ってきたので推理には自信があります―俺がそう言ったら、岩井さんは少しも笑わず『帰りなさい』と言った」
「なぜですか」
「探偵小説の探偵と、実際の探偵ではまるで仕事が違うと言うんだ。岩井さんはシーメンス事件のときに重要参考人の男を大陸まで尾行したことで少しばかり有名になったんだが、このとき必要だったのは、相手に気づかれない目立たなさと、何日も対象者を待つことのできる忍耐強さ、それに、寒さに耐えうる我慢強さだったそうだ。鮮やかに登場して華麗に推理を披露する探偵小説の探偵など、むしろ実際の探偵業には向かない人間だというのだね」
「なるほど」
 杉原は意外にも、感嘆した。少し考えたあとで、
「他にも岩井さんは何か言っていましたか? 実際の探偵に必要なことについて」
 思いのほか、岩井三郎に食いついたように質問を重ねる。