第三話 明智小五郎【2】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

文芸家馬場孤蝶の講演を聞いた太郎は、創作の大いなるヒントを得た。これまで誰も書いてこなかった探偵小説を書いてやる―。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     二、

隆子りゅうこ。おい、隆子」
 隆子が庭で洗濯物をしていると、縁側から夫が話しかけてきた。
「なんです?」
 洗濯をする手を止めず、隆子は返事をした。自分でもわかるくらいにそっけなく。
「私宛ての郵便は来てなかったかな?」
「知りませんよ。自分で郵便受けを見にいったらどうです?」
「見にいったが、なかった。だから訊いてるんだ」
「じゃあありませんよ」
 隆子はしびれを切らし、夫を振り返る。ひょうたんが眼鏡をかけたようなぬぼーっとした顔がある。
馬場ばば孤蝶こちょうさんという人からの手紙だ。おかしいなあ、もう原稿を送ってから一週間になるというのに」
 九月半ばのあの日のことを隆子は思い出した。神戸の知り合いが職を斡旋してくれるかもしれないと朝早くに家を飛び出した太郎が、夜になってなぜかミカン箱を一つ携えて戻ってきたのだ。
「ミカン問屋にでも就職したのか」
 義父の繁男しげおが訊ねるのに答えず、太郎は居間の隅にそのミカン箱を置くと、どこかから原稿用紙の束を引っ張り出してきて、猛烈な勢いでペンを走らせ始めたのだ。
 義父と隆子はここのところの太郎の奇行にもう慣れっこだったので、怒りを通り越して呆れるばかりだった。
 三日ものあいだ、太郎は原稿用紙に向かっていたが、隆子がその後ろを掃き掃除しているとき、突然「できた!」と叫んで両手を挙げて床に仰向けになると、そのままぐうぐう眠ってしまった。
 隆子はこっそり、太郎の書き上げたばかりの原稿を読んでみた。
 ―「あの泥坊が羨しい」
 短編小説だった。
 世間を騒がせている、鮮やかな手口で大金を持ち去った大泥棒。うだつの上がらない貧乏青年がそれについて想像を巡らせていると、その大泥棒が隠した大金を同居人が突然持って帰ってくる。遠くの話だと思っていた事件が突然グッと身近になったその瞬間、隆子はぎゅっと胸をつかまれた感覚に陥った。
 こんなことを本当に考える人がいるのかしらという妙な暗号の使い方も、それだけで終わらない話の展開にも引き込まれた。何よりも読んでいるあいだじゅう背筋がぞくぞくした。
 読後は原稿用紙を両手に持ったまま、しばらく余韻に浸っていた。こんな短編、読んだことがない。元より探偵小説に詳しいわけではないけれど、新しく、面白いものなのではないだろうか。そして―と、そばでぐうぐう眠っている夫のほうを見た。不穏で、怪しくて、人に見せられない秘密に満ちていて、 この人らしい小説だわ、と、しばし優しい気持ちで顔を眺めた。
 だが―とすぐに思い直した。
 これを面白いと思って読んでくれる人が世の中にそんなにいるとは思えない。小説だって売り物なのだから、客がいなければ商売として成り立たないはずだ。早稲田などという立派な大学を卒業していながら職を転々とした挙句、無職状態を続け、売れるかどうかもわからない小説を書いている太郎が、腹立たしくなってくる。