第二話 平井太郎を追って【5】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

三人はついに《化け物小屋》の裏で太郎をとっつかまえた。情けない顔の太郎。だがそのわりに食欲だけは旺盛なようで…。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     五、

 なんて贅沢でハイカラで、奇妙な休日だ―柔らかな照明の光の下、グラスの中の電気ブランという酒の色を眺めながら、千畝は考えていた。テーブルの向かいに座っているのは、平井太郎と隆子。今日生まれたばかりの新しい夫婦である。
 岡本一平という豪快さと繊細さをあわせもった絵描きが去った後、三人はありがたく鰻を平らげた。
「二人ともせっかく浅草に来たのだからオペラを楽しんでいかないか」
 食後、平井がそう提案してきた。せっかくの祝儀を無駄にしてはいけませんと千畝は止めたが、
「祝儀はめでたいことに使わなければ」
 貧しいとは思えないほどきっぱり、平井は言ったのだった。隣で隆子は無言で微笑んだ。それで連れ立って、さっきの劇場へ行くと、午後五時からの入場券がまだ残っており、ぎゅうぎゅうの客席に肩を寄せ合って座った。
 幕が上がってからの時間は、あっという間だった。次から次へと出てくる踊り子。背筋を伸ばし、肩をそろえて調子の速い曲を歌い上げるコーラス。そして、オレンジ色の洋装に身を包み、白い頬ときりりとした眉毛の化粧を施し、高い音域を歌い上げる主役の男。
「すごいもんだろう」
 千畝に、平井が耳打ちした。
「あれが浅草オペラの星、田谷力三だよ」
 話の筋などほとんど何もわからなかった。まるで壊れたオルゴールの中に放り込まれたような、音楽と色彩の渦の中で揉まれたような、それでいて確かに、高揚感と幸福感のある舞台だった。
 顔を上気させた観客たちとともに表に出ると、もうすっかり夜だった。
 まるで東京じゅうの電気をかき集めてきたように、明るかった。アコーディオンを鳴らして高らかに歌い上げる音楽家、きゃっきゃと笑い合う洋装の若い女性たち、太鼓をたたきながら呼び込みをする男、ちょんまげを結ってチャンバラのまねごとをしている男たち、赤い服を着て玉を五つも六つも空中で弄ぶ芸人。…その賑やかさはむしろ、暗くなってからのほうが増しているようだった。
 諧謔かいぎゃくと享楽が怪しく渦巻き、音楽と嬌声がいつ果てるともなくこだまする。誰かの夢の中をのぞき見しているような、千畝が生まれてこの方迷い込んだことのない、怪しい夜がそこには展開されていた。
「これが、浅草だよ」
 眼鏡のレンズに赤青緑の光を映しながら、平井がつぶやいた。隆子に言ったのか、千畝に言ったのか、はたまた、別の誰かに言ったのか…。
「僕は、そろそろ」
 千畝はそう申し出たが、平井はそんな千畝の手をぱっと握った。
「何を言うんだ。まだいいじゃないか。せっかく岡本さんが軍資金をくれたのだから」
 いつの間にか祝儀は軍資金に変わっていた…浅草の熱に浮かされたこの男に何を言っても無駄だろうと、千畝はあきらめた。
 平井は千畝と隆子を引き連れ、六区と呼ばれているらしいその遊蕩めいた光の中を歩いた。しばらく行くと、自動車の走る大きな通りへ出た。さっきの騒ぎが嘘のように、こちらは落ち着いた夜が広がっている。隅田川のほうへ少し行ったところで、平井は立ち止まった。
「ここへ入ろう」
 それは、《神谷バー》という、瓦屋根だが、石造りの壁と庇の装飾に洋風な香りの漂う店だった。 
「すみません。鰻をいただいたうえ、オペラまで見せてもらい、さらにこんな素敵な飲み物を」
 千畝はグラスを目の前に掲げて口をつける。
「舌がしびれるようですね」
「電気ブランという名の通りだな」
 隆子と並んでいるのが恥ずかしいのだろうか、平井はその酒を照れ隠しのようにぐいっと飲んだ。目をぎゅっとつぶり、「くわ」と口を開く。左隣で隆子は、いっさい電気ブランに手を付けず、俯いたままである。
「隆子さんは飲まないのですか」
「お酒を飲むとすぐに眠くなってしまいますから」
 隆子は顔を上げた。
「それより杉原さん。あなた、太郎さんに何か話があったのではなかったでしたっけ?」
「ああ、でも、今日はやめておきます。お二人の記念日に私の話など」
「いいじゃないですか。…太郎さん、杉原さんは試験に合格したんですって」
「試験? 何の試験だ?」
「いやですねえ、外交官の候補生の試験ですよ。太郎さんが紹介したのでしょう?」
 隆子という女性はよくよく聡明と見え、千畝がたった一度だけ言ったことを正確に覚えていた。
「えっ。あの試験、もう終わったのか? まだ二か月くらいしか経っていないじゃないか」
「平井さんが見つけてくれた時点で、試験まで二か月足らずしかありませんでした」
 千畝はこの二か月の死に物狂いの勉強のことを簡潔に話した。
「はあー…本当か。思ったより優秀なんだな、君は」
「本気を出しましたので。ところが、いざ合格してみたら、一つ悩みが生まれてしまいました」
「悩み?」