空になったどんぶりを眺め、はっ、と息を吐きだす。
真吾と健三とは、それっきりである。今頃何をしているのだろうか。
向かいの席を見ると、学生もかけそばを食べ終わったようだった。
「……出ようか」
「はい」
別に知り合いでもないが、話したよしみで同時に席を立つ。
「本当はおごってやりたいところなんだが、私も懐が寒くてね」
「いいえ。そんなつもりではないので」
それぞれ会計を済ませ、表に出る。明るい顔の学生たちが行きかっている。
「どちらへ行く?」
「学校のほうへ」
「私は久々に神田川沿いを歩こうかと思っているよ。正門までは一緒だな」
連れ立って歩きだす。
「どうでしたかカツ丼は。夜鳴きそばの品書きに加わりますか?」
気を使ったように、彼は訊いた。
「いや、カツを揚げるのはだいぶ手間だし、あれだけの味を出せるとは思えん。もう少し別のものを考えよう」
軽く笑って太郎は受け流した。彼のほうはあまり興味もなさそうだ。むしろ俯いて、何か物思いに沈んでしまっているように見える。
留学のことかと、太郎は思った。
さっき何の気なしに訊いたとき、金がないと答える彼の顔に、意外なほどの感情の高ぶりを感じたのだった。本当は留学したいのだろう。だがアルバイトに明け暮れて学費を稼ぐのにも苦労している。似たような大学生時代を過ごした太郎にはその苦しさがよくわかっていた。留学など、結局は太い実家や後援者を持つ者の特権なのだ。
――人のことなど気にしている場合か。
脳内の左奥からそう言われた。
後輩に会ったことから、二人の下級生のことを思い出して感傷的になって……それでなんなのだ。この先の人生が開けるわけでもなし、中学を無事に卒業し、大志を抱いて早稲田の門を叩いた結果、あちこち職を転々とする放浪癖のせいで身を立てる術すらない今の状況を思い知っただけではないか。探偵小説? 夢みたいなことを抜かすな。
一度、否定的になってしまうとあとは坂を転げ落ちていくようにジメジメした心持ちになってしまうのが太郎の性格であった。思わずため息をつきそうになったそのとき、びゅう、とつむじ風が吹いた。
周りの学生たちがわあわあと叫ぶ。数メートル先に落ちていた古新聞が舞い上がり、太郎の顔面にびたりと張り付いた。
「わっ! なんだなんだ」
それをつかんで目を落とす。――飛び込んできた一文に、太郎の目は吸い寄せられる。
「大丈夫ですか?」
訊いてくる後輩に、「君!」とその新聞を押し付けた。
「な、なんです?」
「費用をかけずに留学できるかもしれんぞ、これを見ろ」
それは、外務省が出した公告だった。外交官の候補生を探しており、試験に合格した者には、官費留学をさせるという旨が書かれている。太郎の手から新聞紙を奪うようにして記事を何度も何度も読み返すと、
「これだ……」
彼はつぶやいた。
「ありがとうございます先輩。これに応募してみます!」
「試験は難しいかもしれないぞ」
「なんとかしてみせます! ……しかし、どこに相談すれば」
「学生課に訊いてみたまえ」
「ああ、そうですね、そうします!」
勢いよく正門を駆け抜けようとして、はたと立ち止まり、彼は振り向いた。
「すみません先輩。まだお名前をうかがっておりませんでした」
「平井太郎だよ。君は?」
「杉原千畝といいます。数字の千に、畑の畝と書いて、千畝。読みにくいので『センポ』と呼ぶ人もいます」
「センポくんか。また会えるといいな」
「はい。平井さんも、ぜひ探偵小説をお書きになってください。いつか先輩の書いた小説を読むことを、心待ちにしています」
俺なんて……という声はもうセンポの耳に届いていないようだった。
「それじゃあ!」
センポは勢いよく手を振って、学生たちの波の中に消えていく。見送る太郎の喉元に、ぷっ、とカツ丼臭いげっぷが上がってきた。
早稲田――それは、将来を期待された学生たちで溢れる地。学舎を囲む田んぼの青臭さと、書物のインクの臭いが入り混じり、空の青さまで若々しい。
俺にもまだ何かができるだろうか、と太郎は思った。
(つづく)
※次回の更新は、9月29日(金)の予定です。