「恩に着るよ。真吾のやつ、大事なものだってわかっているくせに乱暴するんだから。人の屋敷に入っちゃったからもう戻ってこないかと思っていた。あーあ、よかった」
現れた時とは、まるで別人のような表情だった。
「やはり、大事なものだったのですね」
「ストランド・マガジンだぜ。日本じゃなかなか手に入らない。ワクワクする探偵小説や冒険小説がいっぱい載ってるんだ」
やはり、北里博士の言ったことは正しかった。
「読めるんですか?」
「ん? ……ああ、まあ。俺も、小説を書くもんでね」
胸を張る。千畝より五、六歳しか年上でないように見えるが、英語を自由に操っているなんて。
「ところで、それも返してもらいたいんだが」
彼は千畝の左手を指さした。梅干しのガラス瓶だった。
「ああ、すみません」
「ありがとう。これも、船酔いのおまじないとして重要なんだ」
「そうでしたか」
「それじゃ、僕たちはまだ話し合わなければならないことが山ほどあるから」
「わかりました。失礼します」
千畝は頭を下げ、踵を返して旅館を出て行った。なぜか、ぼんやりと空を見上げた。
英語。中学に入ったら、勉強できると聞いている。今さっき見たあの雑誌の内容も、すべてわかるようになるというのか。英語を知る者と知らない者では、見ることのできる世界が全然違うということではないか。
胸の中に渦巻くこの感情を、高揚と呼ぶべきか、焦燥と呼ぶべきか。早く自分も英語に触れてみたい。あの中学生は英語を使いこなし、将来、外国で活躍するのだろうか。そういえば、船酔いなどと言っていたけれど――。
「えっ?」
千畝は思わず立ち止まる。
禿げあがった旅館の番頭は、「ガキども三人」と言っていなかったか。どうして中学生が三人で? 話し合わなければならないことというのは何か? 船酔いのおまじないとは何か?
まさか――と、千畝の中で想像が膨らんでいく。
そして千畝は、野田邸へと走り出した。
五、
カツをすっかり平らげてしまい、卵とじのへりの部分で残りの飯を片づけにかかる。太郎の胸中はいつしか懐かしさで充たされていた。まさか三朝庵で、あの下級生二人のことを思い出すとは思わなかった。
満州行きなどというあまりに無謀な計画。それは、あの旅館をアジトとして選んでしまった時点で終わっていたのだ。
芦屋真吾が恋人だった初子に嘲笑されて暴れた挙句しょげてしまったあの日の夕刻、太郎たちの部屋に、野田先生が乗り込んできた。
――お前たち、偽の退学届を出したな! どういうつもりだ!
怒号が、今でも耳の奥にこびりついて離れない。
どうしてわかったんですか? 縮こまっている二人を横目に、太郎は訊ねた。
――この裏は、私の家だ。
野田先生は窓の外を指さした。
――ここの旅館の番頭だって、ガキのころから知っている。こんなところに隠れるなんざ、もう俺に捕まえてくれと言っているようなものだ。
がははと野田先生は笑い、隙をついて逃げようとする健三の首根っこをむんずとつかんだのだった。
その後、どういう説教を受けたのか、太郎はあまり覚えていない。しかし、騒動の結果はよく覚えている。真吾と健三は退学処分になった。それに対し、太郎は五日間の停学で済んだ。同じことをしたのに、むしろ、下級生二人の暴走を止められなかった自分が悪いのに、なぜ一人だけ停学で済むのか、同じ処分にしてくれ――太郎は野田先生に直談判したが、聞き入れられなかった。
素行の悪い二人についてはむしろ、放校にするきっかけができたのだとでも言いたげだった。太郎は内気で休みがちだが成績はよかったので、二人に巻き込まれただけなんだろ、と結局野田先生の言い分に押し切られる形になってしまった。