猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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 明治四十三(一九一〇)年、十月。夕刻。
 千畝は部屋の隅の文机ふづくえで、漢字の書き取りをしていた。母は不在で、弟の敏之としゆきがそばで何をするでもなく寝っ転がっていた。
 がらりと玄関の戸が開く音が廊下の向こうでした。
「今帰りました、好水よしみです」
 がらがらの声が聞こえてきた。まあまあお義兄にいさん、ようこそいらっしゃいました―岩井の叔母さんが応対している。
「あっ、お父さんだ」
 敏之が身を起こし、部屋の外へ駆けていく。千畝は書き取りを続けている。ほどなくして敏之が、父を連れて部屋に入ってくる。
「なんだ千畝。いたのなら出迎えてくれればよかったものを」
 振り返る。一年前に別れたときと少しも変わらぬ冷徹な目で千畝を見下ろしている。
「おかえりなさい」
 千畝はそれだけ言って立ちあがり、父の荷物を受け取った。
 千畝の父、杉原すぎはら好水は、名古屋税務管理局の税務官吏である。仕事柄、転勤が多く、千畝が生まれたのも転勤先であった岐阜の中南部の町、八百津やおつだった。その後、美濃、越前、四日市、中津川、桑名と転々としたが、明治四十年に韓国統監府への転勤を命じられた。さすがに韓国にまで家族を連れていくことはためらわれたと見え、父は単身漢城(のちのソウル)へ、母は千畝を含む子供たちを連れ、実弟である名古屋の岩井家に身を寄せた。
 父の好水は年に一度、こうして日本に帰ってくる。毎年、子どもたちが夏休みの時期に帰ってきて千畝の生まれた八百津に家族そろって旅行に行くのが常だったが、今年は仕事が忙しくて夏には帰れなかった。ようやく長い休みが取れて帰れそうだという手紙が来たのは、二週間ほど前のことだった。
「千畝、明後日あさっての日曜、時間が取れるか」
 上着を脱ぎながら父は千畝に言った。
「はい。取れますが」
大須おおすに野田という方が住んでいる。帝大で薬学を修めた優秀な先生で、お前の祖父じいさんも私もむかしからお世話になっているのだが、日曜、彼の家で催される昼餐会に、高名な医学博士を招いたのだそうだ。誰だと思う?」
「さあ」
「驚くな。北里きたざと柴三郎しばさぶろう先生だぞ」
 新聞でその名は知っていた。血清療法を確立し、ペスト菌を発見した、日本を代表する医学者だ。
「私的な昼餐会で参加者は少ない。その中の一人に私も誘われたのだが、せっかくなら息子も連れて行きたいと申し出ると、快く受け入れてくれた」
「息子と言うのは…僕のことですか」
「当たり前だろう。お前は後々、医学の道に進むんだ。医学博士の話を聞いておくのはためになるだろう」
 まただ…。千畝は暗鬱な気持ちになる。
 父は若いころ、大けがを負って生死の境をさまよったことがある。そのとき助けてもらったことにより、医師というものを心から尊敬している。それまで「岩井」という姓だったのに、その医師にあやかって「杉原」と改姓してしまったほどなのだ。
 千畝が尋常小学校で好成績を修めるや否や、父は「お前は出来がいいから将来医者になれるぞ」と言うようになった。千畝が医者になることは父の中ですでに決定事項であるらしく、韓国に赴任が決まって日本を去るときも「毎日勉強せんと医者になれんぞ」と言って別れたほどであった。
 正直なところ、千畝は医者という職業に魅力を感じてはいなかった。もちろん立派な仕事であることはわかっているし、尊敬する父を喜ばせたいという気持ちはある。だが、医者として人の健康に気を使っている自分自身の姿を思い描けないのである。
 では他に何かやりたいことがあるのかと聞かれたらそれも思いつかず、父に本当の気持ちを話したことはない。ただ漠然と父に背いているような後ろめたさがあり、父が帰国して顔を合わせるのが、どこか怖いような気持ちでいるのだった。

 結局千畝は日曜日、大須にある父の知人宅、野田邸へ足を運ぶことになった。前日に母がどこかから借りてきた子供用の洋装姿である。首周りのあわない白いシャツも、蝶ネクタイも紺色のズボンも硬すぎる革靴も、何もかもが不自然だった。
 大須は名古屋を代表する繁華街である。もともとは大須観音の門前町であったが、江戸時代から芝居小屋や見世物小屋が立ち並ぶようになり、それに伴って商店や娯楽施設でにぎわうようになった。
 野田邸は、大須でも繁華街から少し離れた住宅街の中にある、洋館だった。豪邸というほど広くはないが、二間分の広間に絨毯が敷かれ、十二人が一堂に会すことのできる楕円形のテーブルがある。
 昼餐会の参加者は、千畝以外はみな大人だった。
 床の間を背に腰かけている老人が医学博士の当主、野田五郎だという。そのすぐ右側の主賓席にいるのが、くだんの北里柴三郎博士だった。まるまる太った体にぴったりした背広を着こみ、背もたれに身を預けているその様は、威厳というより余裕を感じさせた。丸く小さな眼鏡のレンズの向こうの目は細いが、それでも日本の医学をリードしてきたのだという自負が感じ取れた。
 参加者の紹介もそこそこに、昼餐会は始まった。会話は主に、北里博士と野田博士の二人しかしていなかった。野田博士の息子だという二人も、その友人だという数名も、もちろん父と千畝の二人も、北里博士の雰囲気にのまれているといった感じだった。
 食事は千畝が食べたことのないような西洋料理だった。小さな椀に盛り付けられた生野菜の寄せ集めを食べると、今度は皿の中央に寄せられたあぶり魚といった具合だった。
「さっき紹介した通り、彼は私のふるい友人の息子でしてね」
 野田博士が父に注意を向けた。
「彼自身は税務署の役人をやっているのだが、息子さんが医学に興味があるとのことで」
「ほう」
 北里博士が千畝のほうを見る。
「ほら、立て」
 父に言われ、千畝はぴんと立ち上がった。
「そう固くならんでもよろしい。目指したいのは臨床かね」
 リンショウという言葉の意味がわからず、千畝は「はい」と小さく答えた。北里博士の眼鏡のレンズがきらりと光った気がした。
「まあ、将来の夢は若いうちに決めたほうがいい。よく食べて、よく勉強しなさい」
「はい」
 千畝は椅子にすとんと腰を下ろした。
 次に運ばれてきたのはステーキという焼肉であった。ナイフとフォークはもちろん知っていたが、それまでろくに使ったことなどなかった。作法が間違っていてはみっともないだろうと父を横目で見るが、その父もさらに向こう隣の客人の手元を見ながらおぼつかない手つきで肉を切っている。
 仕方がないので正面に目をやる。二人並んでいる三十代の男性。向かって右は五郎博士の長男の一太郎。左の熊のような体形の三十歳くらいの男性は次男の千太郎せんたろうと紹介されていた。その巨漢の千太郎氏が、ナイフもフォークも手に取らず、ぼんやりと天井を見上げていた。
千太郎
 五郎博士に声をかけられ、千太郎ははっと姿勢を正した。
「はい?」
「どうしたんだ、ぼんやりして」
「そんなことはありません」
 慌ててステーキに取りかかろうとして、フォークを足元に落としてしまう。
「し、失礼」
「落ち着きがないな千太郎」一太郎が顔をしかめる。「学校で何かあったのか?」
「学校と言うと?」
 北里博士が興味を示した。五郎博士がはははと笑う。
「千太郎は少しばかり出来が悪く、中学の体操の教師をしているのです。生徒指導なぞもやっていて、不良生徒に手を焼いているのだとか」