第一話 カツ丼とかけそば【2】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

早稲田大学近くの蕎麦屋。職を転々とし将来が見えない平井太郎は、若い学生と相席になる。この出会いがすべての始まりだった…。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     二、

 一体、この人はなんなのだろうか―。
 千畝ちうねは正面に座っているその男が気になって、教科書どころではなくなってしまった。卒業生の文集原稿の依頼の入っていた愛知五中の封筒を目ざとく見つけたかと思うと「私も五中だ」などと話しかけてきた。
 明らかに怪しかったが五女子ごにょうしなどという名古屋人以外にはなじみのないだろう地名を知っていることから考えて、卒業生というのは本当だろう。
 それで少しばかり話を合わせていたが、寄宿舎の話の途中から不意に会話を止めたかと思うと、天井を見上げてぼんやりしはじめた。時々、何かを思い出したように、ふふ、ふふ、と笑っている。
 怪しい。怪しすぎる。悪い人ではなさそうだが、砕けた服装と無精ひげから見て、まっとうで勤勉な人ではないだろう。だいたい、明治四十五年卒業と言えば、千畝の六歳年上ということになる。早稲田を卒業して数年経っているはずだ。そんな人がどうして昼日中に学生街の蕎麦屋にいるのだろうか。どう見ても教授らしくはないし…ひょっとしたら落第に落第を繰り返し、学費が払えず退学した手合いかもしれない。
 早稲田には堕落学生も多いと聞くし、もし同じ道に引きずりこまれでもしたら大変だ。関わり合いになるのはやめたほうがいいだろう。
「はい、かけそばお待たせしました」
 店の中年女性が、注文したかけそばを千畝の前に置いた。箸を取り、そばをすすりはじめると、
「おや、かけそばか」
 男が再び話しかけてくる。かけそばをきっかけに物思いの旅から戻ってきたようだった。
「もっと栄養のいいものを食べなくては」
「お金がないのです」
 むっとして、思わず言い返してしまった。
「たまにアルバイト代が入ったときに、この店でかけそばを食べるのが楽しみなのです」
「そうだったか、これは失礼」
 という男の声にかぶせるように、
「カツ丼、お待たせしました」
 中年女性は男の注文の品を置いていく。陶製の蓋の隙間から、さっきまで鍋の中にいたであろう卵とじの美味うまそうな姿が覗いている。男は陶製の蓋を取る。褐色の衣をまとったカツが、卵とじになっていた。
「やあ、これが噂のカツ丼か」
 男は楽しそうに言うと、鼻から思い切り息を吸い込んだ。
「うん。食欲をそそる匂いだ」
 そのとおりだ、と千畝は心の中で同意してしまった。すると何を思ったか男は、蓋を裏返して卓上に置き、箸でひょいひょいとカツを二切れ載せ、その下の飯もごっそりとその脇に移動させた。冷まして食うのだろうか―と思っていたら、
「ほれ」
 と千畝に差し出してくる。
「何です?」
「学生はもっと精のつくものを食べなきゃダメなんだ」
「しかし…もらえません」
「本当のことを言うとね」男は気恥ずかしそうに笑った。「私はこう見えて食が細いんだ。残すと悪いから食べてくれ」
 こう言われては無下むげには断れない。礼を言って蓋をこちらに引き寄せる。カツを箸でつまんで口に入れると、ここしばらく食していなかった肉の旨味と衣の油っぽさが、舌だけでなく全身を喜ばせた。
「美味いか」
「はっ。美味おいしいです」
 思わず軍人のような答え方をしてしまった。男は笑い、がつがつと、自分もカツ丼を食べ始める。食が細いなどと言っておきながら本当は、羽振りがいいのではないだろうか。千畝はそんなことを考えた。昼間からこうして学生街でカツ丼などを食っていられるのも、余裕があるからに違いないのだ。さしずめ、青年実業家というところではないだろうか。
 父の意向に背いて英語を生かせる職に就きたいと早稲田に進学したため、実家からの仕送りはない。学費と生活費を稼ぐため、方々でアルバイトをしている。学業の時間を削っているわりに、給料はとてもいいとはいえない。もしこの人に実入りのいいアルバイトを紹介してもらえたら―。
 甘えた考えであることは千畝も重々わかっていた。だが、縁ということもある。
「つかぬことをお伺いしますが」
「ん」
「先輩は、お仕事は何をされているのです?」
「古本屋だ。あと、夜は支那そばをやっている。屋台を引いてチャルメラを吹いて、いわゆる夜鳴きそばというやつさ」
 がっくりと来た。とうてい高給アルバイトにつながる縁ではなかった。それにしても…。
「早稲田を卒業して、屋台引きですか」
 思わず訊いてしまった。
「卒業後は一度、人の口利きで大阪の貿易会社に就職した。給料はよかったが、すぐに辞めてしまった。毎朝決まった時刻に出勤したり、一つ所にじっとしていたりというのが性に合わなくてね」
 恥ずかしそうに笑い、飯を掻きこんで話を続ける。
「そのあとは三重県の鳥羽の造船所で働いたがこれも一年と少しで辞めた。東京にやってきて、団子坂で弟たちと古本屋を開き…これはまあ今でも続いているが経営は難しくてね。かけもちでできることはないかと探して、夜鳴き屋台を始めたのさ」
 じつはね、と男は声を潜める。
「今日は視察に来たんだよ。私が早稲田を卒業したすぐあと、この三朝庵さんちょうあんがカツ丼なるものを発明したというじゃないか。カツを出汁だしとともに卵でとじ、飯の上に乗っける。なかなかハイカラな食いもんだ。これはうちの屋台で出せはしないかと思ってね」
 うんうん、こりゃたしかに美味いと満足する男の前で、千畝はすっかり話を聞く気が失せていた。とんだ放浪癖の持ち主だ。
 せっかく早稲田を卒業しても、何にもなってないではないか。
 ―お前はどうなんだ。
 心の中から、誰かにそう訊かれた気がした。今のは、父の声か。それとも
 父の反対を押し切ってまで早稲田に入学した。英語を生かせる職業にと、頑なに勉強しているが、いくら優秀な成績を取って卒業したって、その先、どうなるのか。
 人間を相手に、英語を使いたい。それが来るべき国際化の中での自分の生きる道なのだ。
 いくらそう自分を鼓舞したところで、世界に羽ばたくには先立つもの―金がいる。学費を払うのだって精一杯な自分に、そんな機会はないのだ。
「君はどうなんだ」
 千畝の心を見透かしたわけではないだろうに、男は訊いた。
「その本は洋書だね。見たところ辞書もなく読んでいるようだが、末は世界をまたにかける貿易商といったところかな」
「いえ…中学の、英語の教師にでもなろうかと」
 思ってもいないことを言った。だが今の自分にとって一番現実的なことなのだと思う。
「そうか。浦瀬うらせ先生とか言ったかね。夏目漱石先生の教えを受けたという」
 懐かしい、愛知五中の英語教師の名前だった。
「ええ。五中出身というのは本当だったのですね」
「何をいまさら。しかし教師とは、放浪ばかりの俺と違って、地に足の着いた立派な目標だ。浦瀬先生も喜ぶだろうし、親御さんもさぞ鼻が高いだろう」
「いえ」反射的に、千畝は言った。「父は、私が英語の道に進むことを反対しています」
「なんでまた?」
「父はずっと、私を医者にしたがっているのです」
 あの、厳格で頑固な父の姿が目に浮かんだ。将来のために役立つだろうからと世界的医学者の出席する昼餐会ちゅうさんかいに引っ張られていった、あれはたしか、尋常小学校の五年生の時だから、九年前になるか―