第一話 カツ丼とかけそば【1】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

第一話 カツ丼とかけそば

     一、

  燦々さんさんたる初夏の陽光の下、早稲田の通りは学生でごったがえしている。かすりの着物を着くずし、下世話な話で盛り上がっている集団がいたかと思えば、教授と思しき背広姿の男にぶら下がるようにして質問攻めにしているまじめな者もいる。薄っぺらい風呂敷包みを胸に抱え、穴八幡あなはちまんの石段に腰掛けて空を仰いでぼんやりしている者…三年前に卒業したときとまるで変わらぬ思い思いの学生たちの姿がそこにはあった。
 大正八(一九一九)年、五月十日。
 平井ひらい太郎たろうは今年、二十五歳になる。若々しくはないがまだ学生に見えぬこともなかろうと無鉄砲にやってきたことを少し、後悔しはじめていた。明らかに教授でもなさそうな男が昼日中から学生街で何をやっているのか。気にする者もないだろうに、学生たちにじろじろ見られている気がする。
 大学へ向かう通りの入り口で立ち止まり、目当ての蕎麦屋の暖簾のれんを眺める。三朝庵さんちょうあん―太郎が在学中からある店だが、ついぞ入ったことはなかった。  
 どうしようか。入ろうか、入るまいか。
 ここまできて逡巡している自分が滑稽であった。何を恥ずかしがることがあろうか。右腕で暖簾を分けて入ると、
「いらっしゃいませ」
 四十ばかりの女給仕がこちらを向いた。昼時を少しすぎた時刻だが、店内は込み合っていた。
「相席でいいですか」
「あ、ああ…」
 そこ、と差されたのは、壁際の二人席。小柄な学生が一人本を読んでいる。「失礼」と言いながら椅子を引いて腰掛けると、学生はちらりと目を上げ、すぐにまた本に視線を戻す。
「ご注文は」
「カツ丼を」
 品書きを見ることなく、太郎は言った。学生時代に一度も食いに来たことのないこの店にわざわざ足を運んだ目的である。
 向かいの席の学生の本を見る。タイトルは英語である。自分もこのくらいのころは、辞書と首っ引きで英語の本を読み漁ったものだっけと、懐かしくなる。もっとも太郎の読んでいたのは、教科書ではなく海外の小説ばかりだったが。
…おや」
 そのとき太郎の目は、卓の上、壁に立てかけてある茶封筒に留まった。目を細めてその茶封筒の隅に書かれている文字を読む。間違いない。「愛知五中」とある。
「君は、愛知五中の出身か」
 思わず声をかけた。学生は本から顔を上げ、太郎の視線の先を見て、さっと封筒を回収した。
「そんなに警戒しないでくれ。私も、愛知五中の出身なんだ」
…先輩でしたか」
「ああ、明治四十五年の卒業だ。その年に早稲田予科に入り、大正五年に早稲田大学を卒業した」
「というと…」
 と指折り数える後輩に太郎は訊ねる。
「五中はどうだ、相変わらずか」
「相変わらずか、と申されましても明治四十五年の頃を存じません」
 それはそうだ。学生は呆れ顔である。
「私は寄宿舎にいたが、君もそうかね」
「いえ、四年までは叔父の家から通わせてもらいました。最後の一年は五女子ごにょうしの下宿先から徒歩で」
「五女子だって? 歩けば一時間以上かかるじゃないか」
「よくご存じで」学生は警戒を解いたようにうなずく。太郎が名古屋の地理に明るいことを見て取ってのことかもしれなかった。
「母が私以外の家族を連れて父の転任先に行きましたので、そういうことになったのです」
「下宿は金がかかったろう。寄宿舎に入ればよかったのに」
「五年から寄宿舎へ入るのは難しいのです。それに、寄宿舎に入ると、仲間同士つるんで悪さをするやからがいると噂でして。それで母がわざわざ、下宿を探したのです」
 太郎は思わず首をすくめてしまいそうになった。
 仲間同士つるんで悪さをする。―太郎の中に不意に郷愁が浮かんでくる。
 内気で本ばかり読んでいて、小学校ではいじめられっ子だった。寄宿舎に入り、誰にも邪魔されずに読書や妄想にふける時間が増え、ますます内にこもるようになるだろうと自分でも思っていた。ところが思いがけず、二人の悪童に好かれるようになり、その二人とつるんである騒動を起こしたのだ。
 早稲田の蕎麦屋の湯気の中に、愛すべき二人の下級生の顔が浮かんでくる―。

       *

 それは今から九年前の明治四十三年(一九一〇)、十月半ばのこと。太郎は十六歳、愛知五中の四年生であった。
…この四階の部屋がお紺の殺された部屋だが、この部屋の寝台に寝ているとその上から口に人肉をくわえて顎に血を垂らしたお紺の顔がそろそろと降りてくるという噂があった」
 太郎の話を聞いている健三けんぞうの顔はじっとりと暗くなっている。恐ろしく思っているのだろう。怖がりのくせに健三は、太郎の話を聞くのが好きなのだ。
「おっかなびっくりその部屋の中を見ると、人の着物を引きずるような音がする。ズズ、ズズズ…」
 太郎は黒岩涙香るいこうの翻訳ものがお気に入りで、今、健三に語り聞かせているのは、『幽霊塔』という作品の一節である。
「ズズズズ… バタン!」
「ひいっ!」