猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

  • ネット書店で購入する

 ここのところ、いつもそうなのだ。
 過去のことが曖昧になっている。
 もちろん、自分の書いた小説のタイトルなどは覚えている。しかし、それを読むと、本当に自分が書いたのかと疑いたくなるのだ。書いたときのことを回想しても、まるでそのほとんどが欠けている幻灯を見せられているようだった。
 うつし世は夢、夜の夢こそまこと―いつからか、サインを求められると好んで書いてきたこの言葉が、自分に返ってきている。
 雑誌や新聞、広告など、自作に関するものを切り抜き、『貼雑はりまぜ年譜』と題したスクラップブックに貼り付ける作業が、ここ何年も習慣になっている。初めはほんの戯れだったが、最近では、自身の存在を危うい紐で繋ぎとめるための行為のような気すらした。ああ、あれもこれも、早く貼り付けてしまいたい。
 ブーッ、とブザーが鳴った。
「さあ、開演ですよ」
 三島のわくわくしたような声と共に、客席の灯りが落ちる。音楽が鳴り、緞帳どんちょうが上がっていく。
 サスペンションライトの光の中の、怪しく化粧をした女。
 うつし世は夢、夜の夢こそまこと―やはりこの世は、すべて、誰かの見ている夢なのではないか。そしてその夢の終わりは、近いのではないか。
 太郎は、舞台の上の俳優たちの動きを、じっと見ている。

     三、

 思うように、はさみが進んでいかない。
 いけない。一度戻したほうがいいだろうと太郎が刃を横に動かすと、びり、と薄い紙が破れてしまった。
「ああ…」
 はさみを置き、右手を見つめる。
 しなびたリンゴのように水気を失っている。
 太郎の意思とは別に、常に小刻みに震えている。
 よわい七十。パーキンソン病は快方には向かわず、手足は常にしびれている。そればかりか、今年に入って口もよく回らず、隆子に何か伝えようとしても「えっ? なんです?」と訊き返されることが多くなった。
 目の前に積まれた、雑誌や新聞、新刊チラシに芝居のパンフレット、映画の脚本…いつか『貼雑年譜』に加えなければと思いながら溜めてしまった資料の山。自分の記事の部分だけを切りたいが、もうそれもかなわないのか。
「うう…」
 意味をなさない声が、口から洩れる。今、ちょうど隆太郎りゅうたろうが帰ってきている。あいつに頼もうか…。
「父さん、またそんなことをしているのかよ」
 うまい具合に背後から隆太郎の声がした。廊下からこちらを覗き込んでいるのである。
「一人でそんなところにいたんじゃ危ないだろ。今日、母さんは外に出ているんだから、俺の目の届くところにいてくれよ。トイレもさ、一人で行くんじゃないぞ」
 馬鹿にするな、と怒りがこみ上げた。
 なぜ便所の世話まで息子に頼まなければならないのか。
「ううあっ…!」 
 今の今まで頼ろうとしていたのも忘れ、太郎は思い切り手を横に振った。隆太郎はため息を吐き、「三十分したらまた来るから」と、去っていった。
 なにが三十分したら、だ。…まだできる。解説の依頼はまだあるんだ。
 作業を再開する。気の遠くなるくらいの時間を使い、新聞記事を切り取った。かすむ目で、その記事を再び読む。
「シムノン…」
 これは、メグレ警視シリーズのことを書いているようだ。だが…内容にまったく覚えがない。土蔵を改装した書庫の中には、この本があるはずだ。
 椅子の肘掛に手を置き、立ち上がる。よろよろと歩き、柱をつかむ。どうだ、まだ歩ける。廊下へ出て、書庫へ向かう。
「シムノン…」
 読むのは久しぶりだ。
 良い探偵小説はいつになっても心を躍らせる。
 若くなる。子どもになる。
 この高揚感はなんだ? 突如として起こる不可解な事件。怪しい登場人物、奇妙なガジェット。謎とサスペンスが蔦のように絡み合う。そして―その真相が、少しずつ明るみに引きずり出されてくる快感。
 そうだ。子どもの頃、初めてあれに触れたときの高揚感。
 あれ…名前は、何と言ったか。あの、英字の雑誌は。
 不意に、足の感覚がなくなった。
「うふぁ」
 天井が見えた。
 ごっ、と後頭部に衝撃を受け、視界に白い光の筋が入る。仰向けに倒れたのだろう。
 口腔内に液体が流れ込み、「かっ」と咳が出た。
 血が散ったのだと感じた。だが見えなかった。
 闇だ。闇の中にいる。頭蓋骨の中が、じんわりとぬるま湯で満たされるようだ。
 痛くはなかった。むしろ、とても眠いような気になってきた。
 …あの雑誌は、何という名だったか