第八話・最終回 人生よ、謎に満ち【2】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

平井太郎と杉原千畝は、再び三朝庵にいた。二人の前にはあの日と同じカツ丼がある。万感の思いで食べる。懐かしい、これだ!

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     二、

 その違和感は、昭和三十六(一九六一)年八月四日に太郎たろうを襲った。
「それでは、受賞作は陳舜臣ちんしゅんしんさんの『枯草の根』ということで、決定です」
 講談社の担当編集者が言うと、拍手が沸いた。太郎もまた手を叩く。
 赤坂の鳥料理屋「あかはね」である。江戸川乱歩賞も第七回を迎えており、その選考会が開かれていた。
「さあ、それではお食事に参りましょう。本日は名物の鷹匠鍋をご用意しておりますので」
 場の空気が和む。瞬間、太郎の視界がぐらりと歪んだ。
「無事に決まってよかったですね」
 木々高太郎きぎたかたろうが話しかけてきたが、答える余裕がなく、軽く手を挙げて応じた。
「どうかしたのですか?」
 医師だけあって、木々は太郎の異変に気付いたようだった。
 ここのところ、たまにこうしてめまいがする。しかし、すぐに戻るのだ。顔でも洗ってこようか。
「すまんが、手洗いに…」
 絞り出すように言って、テーブルに手をついて立ち上がる。一歩、二歩進んだところで足がもつれた。額に何かがあたる音。
 気づくと、目の前に緋毛氈ひもうせんの床がある。
「だ、大丈夫ですか?」
 木々高太郎が駆け寄ってくる。他の選考委員たちもざわついている。床に手をつき、何とか上半身を起こした。
「すまない。いや、大丈夫だ」
「ご無理なさらず、お帰りになったほうが…」
「いやいいんだ」頑固さが、頭をもたげた。「鳥料理を食ったほうが滋養にいいだろう」
 だが結局その日は、少し箸をつけただけで帰ることになった。
「明日にでも、脳をお調べになったほうがいいかと思います」
 別れ際、木々高太郎は勧めた。
 軽微な脳出血があると告げられたのはその数日後だった。
「不要の外出は厳禁です。とはいえ…」江戸川乱歩のことを知っている医師は言いにくそうに顔を歪めた。「どうしても外出するときには、かならず付き添いを連れていってください」
 小説こそ世に出ないものの、今や江戸川乱歩の名は推理小説界の大家として世に広まっている。出かけるべき会合はたくさんあり、そのすべてに、隆子りゅうこが同行することになった。下戸なりに若手作家を連れ回す習慣も、この診断を機にすっぱりやめた。

 十一月、多年にわたる探偵小説界への貢献により、太郎は紫綬褒章を授与されることになった。
「探偵小説がこんなふうに認められるようになるなんて、誰が想像したか…」
 授与式が終わったあと、控室でぽつりとつぶやくと、横で隆子が笑った。
「私には、あなたがこんなふうに認められることのほうが不思議だわ」
横溝よこみぞも、同じことを言っているだろうな」
 光文社の編集者が小走りに近づいてくる。
「先生、おめでとうございます」
「ああ、うん」
「こんな折に申し訳ないのですが、来年度の少年探偵シリーズのご進捗について伺いたく…」
 値踏みするような眼だ。彼もまた、太郎の衰えを感じているのだろう。
「心配ない。第一回を書きはじめたよ。『超人二コラ』という題なんだ」
「ありがとうございます」ぱっ、とその顔が明るくなる。「褒章受章後第一作と宣伝させていただきます」
「子どもにそんなことを言ってもわからんだろう」
 カラカラと笑って見せながら、「もうおやめになりますか」とは聞かないんだな、と思った。
 太郎自身の衰弱や少年探偵シリーズ以外の新刊が出ないこととは関係なく、江戸川乱歩の作品の勢いは続いていた。

 昭和三十七年三月、太郎は大手町の劇場にいた。
「ご覧ください、先生」
 隣の席に座った男が、パンフレットを差し出してくる。刈り込まれた短髪に太い眉、鍛え上げられた肉体が礼装越しにもわかる。目下、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気作家、三島由紀夫みしまゆきおである。
「すれ違う男女の視線。まさに先生のお書きになった『黒蜥蜴くろとかげ』そのものではありませんか。私はこの作品を心から愛しています。脚本化させて戴けるのですら夢のようなことですから、今日こうして、先生とこの作品を観られることを至上の欣喜と感じるものであります」
「ああ、ありがとう、三島さん」
「それにしても、先生がお寄せくださったこの文には感動しました。パラドックスとアイロニイ。まさに私が舞台で表現したかったものです」
 開かれたパンフレットに印字されているその文字は、確かに先月、頼まれて書いたものだった。だが、本当にこれを自分が書いたのだろうか、とおかしな錯覚に襲われる。