第六話 ヨーロッパへ【7】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

ビザを求めて押し寄せるユダヤ人たち。その中に変な日本語を話す男がいた。まさかあれは―千畝の生涯の決断の時が迫る。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

 

     七、

 それから毎日、朝から晩まで千畝ちうねはビザを発給し続けた。キュラソー行きのビザを持っている者はもちろん、条件が不十分である者にも、わずかばかりの手数料で厭わずビザを出した。受け取ったユダヤ人は希望に目を潤ませ、千畝の手を握って帰っていく。どうか無事で日本にたどり着いてください―去っていくユダヤ人一人一人の背中に、千畝は心の中で声をかけた。
 八月に入り、ソ連から正式に「領事館を閉鎖して立ち去るように」という要請が来た。しかし千畝はビザを書く手を止めるわけにはいかなかった。直筆でなくてもいい箇所はスタンプで対応するようになったが、サインはやはり自分で書かなければならない。右手は腱鞘炎になりかけ、冷やしながら必死に命のビザを発給し続ける。執務を深夜まで延長し、深夜に疲れてベッドに倒れ込む日々が続いた。
 八月十六日、松岡まつおか洋右ようすけから電報が届いた。
 ―近頃、駐カウナス領事館発給のビザを持っているものの、行先不明、旅費僅少のユダヤ人を日本に上陸させるか否か処置に困る状況が起きている。この際、避難民らしきユダヤ人に対してはビザの発給をしないようにしてほしい。
 今や松岡大臣にとって、千畝はお荷物だった。現地の事情だけで暴走する役人の欠陥品であった。だが、命の危機を迎えている人々を目の前に、やめるわけにはいかない。
 松岡からの電報を何度も読み返しながら頭に浮かんでくるのは根井ねい三郎さぶろうの顔である。上陸させるか否か、ということは、ウラジオストックで船には乗っているのである。「杉原千畝」のサイン入りのビザを見た根井が、日本行きの船への乗船許可を出しているのは明らかだった。
 ありがとう根井君
「センポ、次の人、通してイイ?」
 バロンが心配そうな顔をしていた。ポーランド語通訳のために手伝いを頼んでもう二週間以上、今やすっかり助手と言っていい存在だ。
「バロン、私は今、助けられている」
「おかしなコト。助けられているのはユダヤ人です」
「いいえ。今まで出会った人たちに支えられているのです。バロン、ここが閉まったら、あなたも早く日本に行ってください。そして、お金がなくて日本から先に行けない人を助けるのです」
「私もお金、ナイ」
「この際、助けてもらうことにしましょう。私たちのふるい友人にね」
 千畝は執務机の引き出しを開け、一冊の本を取り出す。それを、バロンに預けた。

     八、

 横溝よこみぞ正史せいしはその日、朝から妙な胸騒ぎを感じていた。
 わずかばかりの朝飯を食い、原稿用紙に向かう。ここのところは人形にんぎょう佐七さしちの活躍する捕物帳をよく書いている。時局柄、「不謹慎」と当局に判断されがちな探偵小説は出版社が掲載させてくれなくなっているが、時代物なら当局も目をつぶってくれるのだ。おかげで人形佐七は正史の代表的なシリーズとなっていた。
 その人形佐七が、今日は原稿用紙の上でうまく立ち回らない。なんだか胸のあたりがそわそわするのだ。結核や、そういうたぐいのものではない。
 こらあかんな、と立ち上がって膝の屈伸運動をはじめたそのときだった。
 玄関の戸が激しく叩かれる音がした。
孝子たかこ、誰か来たで」
 妻の名を呼んだあとで、一時間ばかり前に婦人会の用事で外出したのを思い出した。
…しゃあないな」
 玄関へ向かう。すりガラスの向こうに人影が見えた。やけに長身だ。編集者ではなさそうだった。
 どんどんどんどん…! 人影は再び、戸を叩きはじめる。何も声をかけてこないのが不気味である。
「誰やねん、まったく」
 がらりと引き開け、「ぎゃっ!」と思わず後ずさった。上がりかまちにかかとをしたたかに打ち付け、どすんと尻餅をついてしまう。
「だ、だ、いたた…」
 痛いがそれどころではない。そこに、化け物がいるのだ。黒いマントに身を包み、つるんとした白い顔には毛髪も皺も何もない。鼻と唇、それにぎょろりとした二つの目があるだけだ。
「な、な、なんや」
 やっとの思いで言うと、くすくすと笑い声が聞こえた。死角となっている戸の脇からひょっこりと、麦わら帽子をかぶった男の顔が出てきた。
乱歩らんぽさん…」
「ひどい驚きようだな。探偵小説家が聞いてあきれる」
『悪霊』の一件で別れて以来、ずっと疎遠だった。そんな気まずさをまったく見せず、いたずら少年のように腹を抱えて笑っている。
「いいマスクだろう。戦地で顔に大やけどを負った兵隊がかぶることがあるものだよ。おい、取っていいぞ」
 べりべりとマスクを剥がす黒マント男。その下から出てきたのは、鼻筋の通った外国人青年の顔だった。