怪談刑事

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 七月二十六日、午前八時。
 バロンと再会してから八日が経っていた。
 領事館を囲むユダヤ人の数は日に日に増えている。彼らの多くは食事もとっていないだろうに、千畝はいつものように朝食の席に座っている。トーストの横には、すっかり減ってしまったジャムの瓶。ユダヤ人たちが領事館を囲んでいるのでおちおち買物にも行けないと料理人が嘆いていたのを思い出す。
 千畝は食事に手をつける気にはなれなかった。前日にソ連外務省からやってきた男の言葉が頭から離れなかった。
「ソ連はリトアニアを正式に併合する。その暁には、この領事館は閉鎖し、家族を連れてすぐに退去してください」
 来るべき時が迫っていた。建物の周りのユダヤ人たちについて彼は言及しなかったが、領事館が閉鎖されればすぐにソ連当局の者がやってきて、ワルシャワに強制送還になるだろう。それは彼らにとって、ナチスの毒牙にかかること―死を意味している。
 なすすべもないまま、自分はユダヤ人を見殺しにしようとしている。
「ひゃはっ!」
 千畝の暗鬱な気持ちをあざけるかのような声が、部屋の隅から聞こえた。弘樹ひろきがカーテンの隙間から外を見て笑っている。そばにいる千暁ちあきも、弘樹の肩に手を置く節子もまた笑っている。
「何を笑っているの、あなたたちは」
 幸子がとげのある口調で言った。
「外にいる男の子が、変な顔をして笑わせてくるんだよ」
「よくあんなに舌が伸びるわね。ねえ弘樹、あなたも負けてないで笑わせなさい」
「えー」
 この状況下にあっても、三人は楽しそうだ。しかし、ユダヤの子が弘樹を笑わせようとするなど、本当にそんなことがあるのだろうか。千畝は立ち上がり、弘樹たちの後ろに立って窓から下を眺める。
 柵の向こう、ひしめき合うユダヤ人たちの最前列に弘樹より少し年上らしき二人の男の子がいて、両耳を引っ張り、白目にして、べろーんと舌を出していた。ビザ発給の糸口になればなどという打算など何も見えなかった。ただただ、偶然目の合った窓の向こうの子どもを笑わせてやろうという、いたずら心だけがあった。
「いーっ、いーっ」
 節子に焚きつけられた弘樹もまた、歯をむき出し、寄り目にして、おかしな顔をする。柵の向こうのユダヤの子どもたちはそんな弘樹を指さして笑う―。
「子どもは、世界共通だな」
 千畝はつぶやいた。
「そうよ」
 いつの間にかそばに、幸子が立っている。
「子どもは世界共通。そして―子どもを守りたいという親の気持ちも世界共通よ」
 息をのんだ。千畝に向けられた妻の目には、覚悟の光が宿っていた。
「幸子。私が命令に背くということは、君たち家族の人生をめちゃくちゃにしてしまうかもしれないことだ。わかっているかね?」
「ええ。でもしょうがないわ。あの人たちは困っている。あなた、困っている人を放っておけますか」
 千畝の目の前に、街灯の光に照らされた、頼りないリンゴの木が現れる。
 懐かしいハルビンの、ロシア人居住区の広場だった。 
 ―それでもあなたは外交官を続けようというのでしょう? だったら約束して。
 あの日千畝の前にいたのは、幸子ではなかった。
 ―この先何か迷うことがあったら、優しいと思う選択肢を取るのよ。あなたは、そういうふうにしか生きられないのだから。
 運命や仕事に恵まれたかどうかはわからない。だが、妻に恵まれた人生だというのは確信が持てた。一度ならず、二度までもである。
 千畝が無言で幸子にうなずいたそのとき、
「すみません」事務員のボリスラフがドイツ語で言った。「センポさん、確認ですがビザを発給するつもりですか?」
 日本語には不自由なはずだが、今の二人の雰囲気を見て察したのだろう。小さくうなずく。
「僕、気になっていることがあります。あの人たち、ビザをもらってシベリア鉄道に乗っても、そのあと、どうやって日本に渡るんですか?」
「どうやってって、船だよ」
「ウラジオストックの領事は、乗船を許可してくれますか?」
 千畝は戸惑った。たしかに、目的地への入国許可がないまま通過ビザを発給したことがわかれば、ウラジオストックの領事は日本への入国を認めず、ユダヤ人たちはソ連領内で路頭に迷う。ポーランドに強制送還されてはすべてが水の泡だ。
「ウラジオストックの領事さんに協力してもらえばいいんじゃないの?」
 幸子が言った。
「そうやすやすと協力してくれるわけ…」
 千畝は言いかけ、あっ、と叫んで部屋を飛び出す。階段を下り、執務室へ飛び込んで棚から名簿を引っ張り出す。現在の、駐ウラジオストック領事は根井ねい三郎さぶろう
 ―俺は本当に杉原さんのことを誇りに思ってるんです。いつでも杉原さんの力になりたいと思ってるんですよ。
 海亀によく似た人懐こい笑顔がそう言った。
 ―だから、ここ一番のときは、俺を頼ってくださいね。
「どうしたんですか?」
 幸子たちが心配して、ついてきていた。彼女らに向かい、千畝は微笑む。
「ここ一番のときが、来たんだよ」
 千畝は扉に近づき、かんぬきを外す。柵の向こうにひしめきあうユダヤ人の中央に、バロンの姿が見えた。
「ただいまより、通過ビザの発給を開始いたします!」
 バロンの顔が明るくなり、ポーランド語で仲間たちに告げた。うぉぉぉっと、クジラがえたような声の波が、カウナスの空を震わせた。

(つづく)