猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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「つまり、あなた方は日本へ行くビザが欲しいというのですね?」
「そうデス!」
 バロンは満面に笑みを見せた。千畝は考える。ソ連の情報を得るための設置だったとはいえ、紛れもなくここは領事館で自分は領事だ。日本へのビザを発給する権限は持っている。しかし、赴任してきて一年、ここでビザを発給したことなどない。それが一度にあれだけの人数のビザを発給して、本省に何と言われるか…。
「もし日本行きのビザがもらえるとわかったら、やってくるユダヤの方々は、まだ増えますか」
「モチロンです。たぶん、三千人、いやもっと」
 無茶だ。三千人を超えるぶんのビザを一度に発給するなんて。
「たとえ日本に渡れたとして、滞在先が保証されていないと、今度はユダヤの方々が日本国内で彷徨さまようことになる。日本も今、戦争をしていて余裕がありません。過度の外国人流入が混乱を引き起こすと、外務省が拒否する可能性があります」
「ダイジョーブ。先に、これ、もらってマス」
 バロンは上着を探り、折りたたまれた紙を取り出し、千畝に見せた。それは同じカウナスにあるオランダ領事館が発給したビザだった。行先欄には「Curaçao」とある。…どこなんだ、それは?
「幸子、世界地図を持ってきてくれ」
 幸子が本棚から持ってきた地図を睨みつけ、ようやく見つけた。Curaçao
キュラソー
―それは、カリブ海に浮かぶ小さなオランダ領の島だった。
「私たち欲しいもの、『通過ビザ』デス」
 通常のビザとは違い、最終目的地へ行くための経由地として入国を認めるビザである。発給の条件は、最終目的地の入国ビザと十分な旅費があること。おそらく彼らは全財産を持ってきているだろうから、条件は満たしていることになる。
 しかし―こんな小さな島に数百人のユダヤ人が何の用があるというのだ。行くわけがない。きっとオランダ領事の入れ知恵だろうと千畝は思った。目的地のビザさえあれば、通過ビザを発給するための正当な口実となりうる。ただの形式上のやりとりだ。
 ユダヤ人の命を救う妙手と言えなくもない。だが、丸投げだ。最終的な行き先だけは用意しといてやる。彼らを救うかどうかはお前次第だ、日本の領事―そう言っているようなものだった。
「外にいる全員が、そのキュラソーの入国ビザを持っているのですか?」
「全員ではないデス」
 条件は良くない。たぶん、バロンの望みは叶えられないだろう。何と言って断るべきか、何と…。
「なんだか顔色が悪いわ、お義兄にいさん」
 のんびりとした口調で節子が言った。
「みんな困ってるじゃないの。ビザ、出してあげたら?」
「そんなに簡単なことじゃないんだよ。一日に出せるビザの数なんて限られている。三千人ものビザなんて現実的じゃない。それに、最終目的地の入国手続きが済んでいない人には…」
 バロンに気を使いながらも、千畝は言った。
「自分は外国でお手伝いさんまで雇って暮らしてるのに、日本に行きたい人のお世話もしないんですって? 変な仕事ね、外交官って」
「節子、何もわからないくせに口出しするんじゃないの!」
 幸子に叱られ、子どものように舌を出す義妹の顔。―変な仕事。本当だ。ペルソナ・ノン・グラータをつきつけられたときから、いや、満州国外交部に抜擢されたときから、本当に思い通りではない変なことばかりやらされている。
 千畝だって本当ならオランダ領事の無言の提案に乗り、行き場のないユダヤ人を救ってやりたい。だが役人なのだ。上司の命令通りに動き、何をするにも、上司にお伺いを立てなければならない立場なのだ。
 上司―それなら
…本省に、発給可否の電報を打ってみよう」
 その旨を外の皆に伝えるよう言うと、バロンは希望がつながったとでも言いたげに明るい顔になり、外へ出ていった。
 さっそく事情を伝える文書を作り、電報を本国の外務省へ送った。返事は、翌日あった。
 ―外国人入国令を遵守せよ。
 目的地の入国手続きが済んでいないユダヤ人に通過ビザを発給するなということだった。バロンにそれを告げるのはつらかった。領事館を囲んで寝泊まりをしているユダヤ人たちの落胆のため息に潰されそうだった。
 直後、天の恵みのような情報が舞い込んできた。七月二十二日、第二次近衛このえ内閣の発足とともに新たな外務大臣が就任したのだ。
 松岡まつおか洋右ようすけだった。
「松岡さんは人道的な考えをお持ちの方だ」
 千畝は興奮し、バロンの手を取った。かつて満州に大勢のユダヤ人がやってきて凍えそうになっているところを、人道的な立場から助けたという話を聞いたことがある。松岡ならきっと、今、千畝が置かれている状況を理解できるはずだ。期待を込め、先日とほぼ同じ内容の電報を、「外務大臣 松岡洋右」宛に送った。
 返信はすぐにあった。
 ―何をもってしても、外国人入国令を遵守すること。
 まるで肩の関節が外れたかのように、千畝は脱力した。
 どうしてだ。やはり大臣になったら法の遵守が原則だというのか。…あきらめきれず千畝は、懇願する思いで電報を打つ。結果は同じだった。近衛内閣の方針はドイツ・イタリアとの協力強化に傾いており、ドイツの機嫌を損ねたくないという意図があるように見えた。
 松岡外務大臣は、ユダヤ人たちを救うなと言う。
 千畝は食欲がわかなくなった。夜も眠れず、ベッドの上で寝返りばかりを打った。領事館を囲むユダヤ人たちは日に日に増えている。誰も彼も、泥にまみれた顔で、領事館の窓を見上げている。すべてが絶望に閉ざされた運命の中での、わずかな希望。―その希望に手を差し伸べることを、外務省は―松岡大臣は拒否する。
 ビザを書きさえすれば彼らの命はつながる。命令に背くか? いや、そんなことをしたら、外交官生命が危ない。職を失えば家族が路頭に迷う。それどころか、国の命令に背いた者の家族だと後ろ指をさされて暮らすことになる。かわいい子どもたちにそんな運命を背負わせるわけには
「あなた、大丈夫ですか?」
 毎日声をかけてくれる幸子に、返事すらしなくなっていた。