猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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「ヘルシンキの公邸と全然違うわねえ」
 白壁の殺風景な建物を見上げ、義妹の節子せつこがため息をつくように言った。「任地が変わると生活水準も変わるなんて、博打みたいな仕事なのね、外交官って」
「本当に口の悪い子ね。お手伝いさんもコックさんもいるんだから文句言わないの」
 千暁ちあきを抱いた幸子がたしなめ、千畝は苦笑する。小さな庭ではすでに、弘樹ひろきが走り回っている。どこへ行っても家族が一緒だと思うと、心が和む。
 しかし、そんな千畝の気持ちをかき乱すような出来事がすぐに起きた。
 九月一日、ナチスドイツがポーランドに侵攻したのだ。
 ドイツ軍は電光石火の勢いでワルシャワを制圧した。そのままの勢いでリトアニアに侵攻してくる可能性もある…と思ったが、ポーランド西部を占領したところでぴたりと侵攻は止まった。
 ドイツはポーランドを完全に制覇するつもりはないのだろうか。千畝はベルリンの日本大使館に電報を打ち、情報を乞うた。
 ―これ以上の進軍の動きは、今のところないと思われる。
 その返事から、千畝は一つの可能性に思い当たった。
 ポーランド侵攻前夜に締結された独ソ不可侵条約。あの中に密約があったのではないだろうか。すなわち、ドイツとソ連とでポーランドを分割するという内容である。ドイツ軍は約束の境界線まで制圧したところで行儀よく侵攻をやめたのだ。となれば、近いうちにソ連もまたポーランドに侵攻してくる可能性がある。リトアニアは、ソ連と国境を接することになる!
 千畝の予想は当たった。
 九月十七日、ソ連がポーランドに侵攻し、先だってドイツが侵攻したラインでやはりぴたりと止まった。ドイツとソ連―つい最近まで反目しあっていたように見えた二国のあいだにはやはり、お互いにとってだけ誠実な密約が結ばれていたのである。
 カウナスの街は急に、不安の黒雲が立ち込めたようになった。ソ連はリトアニアもまた勢力範囲内に置こうとするだろう。いつ侵攻してくるのだ? そして、そのとき私たちの運命は―?
 千畝はいてもたってもいられず、国境の偵察に行くことにした。一人で行けば偵察だと幸子たちにわかってしまうかもしれない。
「ドライブに行かないか、ランチでも持って」
 真の目的を隠し、あえて家族を誘った。
 ヘルシンキに赴任していたときに、運転免許証は取得していた。自動車の運転は面白く、夜中にあちこちドライブして公使館職員を焦らせたこともあった。 
「ねぇ義兄にいさん、どこへ行くの?」
 ポーランドとの国境付近まで来たところで、後部座席から節子が訊いてきた。ずっと座りっぱなしで、三歳の弘樹はむずかっている。
「この先に、景色のいいところがあるそうなんだよ」
 適当なことを言って車を走らせているうち、森を見渡せる小高い丘まできた。辺りに人影はなく、のどかな雰囲気である。
「ここだよ」
 千畝はさも初めからの目的地だったかのような態度で車を停めた。窮屈な車内から解放されたことに弘樹は喜んで草の上に寝転がり、節子もまるで疑うことなく「さーあ、おひるごはん、おひるごはん」と、サンドイッチを広げはじめる。千暁は天使のような顔でにこにこ笑っている。
 ただ一人、妻の幸子だけがどこか探るような顔で千畝のことを見ていた。
 のんびりとした昼食を終えたところで、千畝は一人で歩きたいからと断って丘をくだり、森のほうへ降りていった。傾斜の緩やかな地形が続く。地盤は固いように見えるが、雨が降ったらぬかるみになるだろうか。
「あなた…」
 不意に声をかけられて振り返ると、幸子がいた。
「ついてきたのか」
「このドライブ、何か隠れた目的があるのでしょう?」
 その目をじっと見る。そして、観念した。隠し通せる相手ではない。
「実はね、カウナスに赴任を命じられたのは」
「ソ連の動きを探るためね」
…わかっていたのか」
 驚きというよりむしろ、安堵に近いような感情だった。
「赴任してからどこへも行かなかったあなたが景色のいいところなんて知るわけがない。ここはソ連との国境でしょう?」
「地図など見ていなかったはずだが」
「太陽の向きで東に向かっていることはわかったわ」
 やれやれ…外交官の妻だからと語学ばかりを頑張っていたように見えたが、もう一つの「外交官」の技術についても彼女は習得しつつあるようだった。