怪談刑事

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「私がドイツ語やフランス語を学ぶのにどれだけ苦労しているか知っているでしょう? それをあなたはやすやすと操るばかりか、英語もロシア語もペラペラで、いつのまにか私のダンスの先生と談笑できるほどフィンランド語もマスターしてるじゃないですか」
「それはまあ…語学は得意だから」
「あなた方には才能がある。そして、才能を生かせるステージに立っている。それなのに、ちょっと自分の納得いかない仕事だからっていじけてみせたりして。贅沢なのよ、江戸川乱歩も、杉原千畝も!」
「落ち着いてくれ、幸子」
「才能はあなたたち固有の財産よ。それを磨いてきたのもあなたたちの努力。でも、ステージに立っているのは、多くの人が応援して、支えてきてくれたからでしょう?」
 夫が息をのむのがわかった。
「その人たちに応えなさい。仕事というのは、そういうものでしょう?」
 そのとき、ドアが開いた。
「なになに、喧嘩してるの?」
 節子が顔を覗かせた。弘樹がその横で目をこすっている。
「弘ちゃん、よく見ておきなさい。あなたのお父さんとお母さんが喧嘩するなんて、とっても珍しいことよ」
「いいんだ。もう終わったんだ」
 興奮冷めやらぬ幸子の代わりに、夫が立ち上がった。
「弘樹、お父さんたちと一緒に寝るか?」
 ぷいと弘樹は顔を背け、廊下に出ていく。
「なーんだ、もう終わっちゃったの。つまんない」
 ぺろりと舌を出して出ていく節子を見送り、夫はドアを閉めた。再び二人きりになり、幸子は先ほどの自分が急に恥ずかしくなる。
「ごめんなさい、あなた…あの」
「ありがとう」
 振り返った夫は優しく微笑んでいた。

 それからほどなくして、幸子は妊娠した。フィンランドは妊婦に優しい国で、節子のみならず職員の誰もが気を使ってくれた。社交パーティーに出れば、各国の大使や公使、夫人たちもみな新しい命が宿ったことを祝福し、「はやく赤ちゃんが見てみたい」とこぞって言うのだった。
「私に名前を付けさせてくれない?」
 節子はにこにこしながら大きくなった幸子の腹を撫でた。
「ヘルシンキからとって『伸太朗』というの。のびのび育ちそうでしょ」
「なんで『シン』をとるのよ」幸子は苦笑した。「それにね節子。この子は女の子のような気がするのよ」
 早くから日本を飛び出していたためか夫は、女は夫を支えて貞淑に生きるべき、という考え方に疑問を抱いている。男の子でも女の子でも同じように育てるべきという考え方の夫婦のもとには、女の子を授かるのは当たり前だと幸子は確信し、女の子の名前ばかり考えていた。
 だがこればかりは、信念とは関係なかった。
 昭和十三年十月二日。幸子のお腹から出てきたのは、色の白い、天使のような顔をした男の子だった。千暁ちあきと名付けられたその男の子を、それでも幸子は喜んだ。
 夫もまた、弘樹と同じようにはしゃぎ、公邸も公使館も祝賀ムードに包まれた。
 その反面、ヨーロッパの情勢は悪いほうへと転がっていた。
 千暁が生まれてからわずか一か月後、ドイツ国内でユダヤ人の商店が一斉に破壊されたというニュースが飛び込んできた。ドイツのみならずドイツに占領された地域でもナチスの人種差別政策は猛威を振るい、ヨーロッパから逃れようとするユダヤ人が混乱を引き起こしていた。
 ヘルシンキにはまだ、その不穏なざわめきは届いていなかった。公使代理として働く夫を支えつつ、語学とダンスに励む日々。節子は相変わらずフィンランド人青年に気に入られようと明るく振る舞い、彼女の世話で弘樹も千暁もすくすくと育っていた。
 だから、その転任の報せがきたとき、幸子は驚きとともに不安を覚えた。
 一九三九(昭和十四)年の七月のことだった。
「リトアニア、ですか?」
 夫に届いた辞令を眺め、幸子は目をぱちくりとさせる。
「知らない国だろう?」
「聞いたことはありますけれど、この、カウナスという街は知らないわ。こんなところに領事館がありますか」
「新しく作るんだそうだ。私が、初代の領事代理になるんだよ」
 名誉なことだろうか―夫の不思議そうな顔を見る限り、そうではなさそうだった。
「新しい公邸はどんなところなの?」
 隣りで節子が訊ねた。
「それも、これから探すんだ」
「えっ?」
「物件も、現地に入ってから私が探すんだよ」

(つづく)