猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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 ヘルシンキは平和そのものだった。節子はドイツ語の講師についてくる助手の青年と仲良くなり、週に何度か出かけるようになった。
「私、国際結婚しちゃうかもしれないわ、どうしましょーう」
 よちよち歩きを始めたばかりの弘樹にそう言いながらはしゃぐ節子をほほえましく思う半面、幸子は夫のことが気がかりでたまらない。
 昼間は公使館に行ったり、他の国の大使館に行ったりと、かなり忙しそうにしている。社交パーティーで遅くなっても必ず翌日には定時に出勤するほど精力的だった。
 だがたまに朝食を食べたあとや、仕事を終えて帰宅した直後など、ぼんやりと宙を見上げていることがある。心の中を空しさが占拠しているように、幸子には見えた。
「あなた、大丈夫ですか?」
 声をかけるとはっとし、
「ああ…なんでもない」
 夫はごまかすのだった。
 国際情勢は、悪化の一途をたどっている。この十一月には日独伊防共協定が結ばれた。全体主義的なヒトラーのドイツに日本は近づいている。中国との衝突が泥沼の膠着こうちゃく状態に陥っているのに、さらにヨーロッパの戦争に巻き込まれることになったら…。
 今こそ、外交が重要な時だ。それなのに、こんな平和な街にいて、社交パーティーにうつつを抜かしていていいのだろうか。夫の焦燥や空虚さは推して知るべしというものだった。
 そうこうしているうち、酒匂公使がポーランドに転任することになった。
「今夜はこれを全部飲み干すから、そのつもりで!」
 職員全員を公邸に呼びつけて開かれた送別会で、酒蔵の日本酒をすべて運ばせると公使は言い放った。食卓には刺身やすき焼きなど豪華な日本料理が並び、ヘルシンキにやってきて一番の酒宴が開かれた。
 深夜、ほとほと疲れて寝室へ帰ってくると、幸子も夫もばたりとベッドに倒れ込む。
 パーティーの喧騒が嘘だったくらい、北欧の夜は静けさの底に沈んでいた。
「公使代理になるんですね」
 幸子は仰向けの体勢で、隣の夫に話しかけた。代理ではあるが、ついに公使になった。一人前の外交官として認められたことになる。
 夫は仰向けで天井を見上げたまま、沈黙していた。嬉しさをかみしめているのか。それとも他の感情か。
平井ひらい太郎たろうさんを覚えているか」
 夫がそうつぶやくのに、たっぷり二分かかった。
「江戸川乱歩さんのこと?」
「ああ。出会ったころ、あの人は迷走していた。あらゆる仕事を始めてはすぐにやめ、自分に勤め人など向かないと嘆いていた。そんな生活の中、奥さんをめとった」
「おかしな人ね」
「本当におかしな人さ。だけどその平井さんが小説家になった。そして瞬く間に人気になり、ハルビンでもその名を聞くようになった。すっかり売れっ子になって幸せなのだろうなと、私は勝手に思っていたよ」
「幸せではなかったのですか」
…そうらしいね」
 夫は横向きに体勢を変え、幸子の顔を覗き込む。
「昭和八年だったかな、北満鉄道の件で日本に帰っていたときに汽車の中で偶然再会したんだ。彼は嘆いていたよ。仕事は引きも切らないが、自分の納得のいかない作品ばかりを世に送り出していると」
 やってくる締め切りをこなすために、その場その場で生み出した話で高い原稿料を受け取る自分自身がいやになった。平井太郎―江戸川乱歩はそんなふうに打ち明けたのだそうだ。
「男にとって、仕事とはなんだろうね」
 ため息をつくように、夫は言った。
「がむしゃらにやってやりたい仕事ができたと思ったら期待通りのものではなかった。それでも周りは出世したともてはやす。…人から見た幸せと、自分の中で納得いく姿が乖離かいりしていく。今になってようやく、あのときの平井さんの気持ちがわかった気がするよ」
 やっぱり、そうだったのだ。
 外交官として、自分のロシア語が生かせない場所で出世することに対するもどかしさ。今までごまかしていた心情を、ついに夫は、幸子に吐き出した。
 幸子の中にわきあがってきたのは、慰めたいという気持ちでも、いたわりたいという気持ちでもない。
 苛立いらだちである。
贅沢ぜいたくよ」
「え?」
 横で夫は瞬きをする。幸子は布団の上に手をつき、半身を起こした。
「女学校に通っていたとき、『もし男に生まれていたら』ってずっと思っていたわ。男に生まれていたら、就職口の選択肢だってあっただろうし、小説を出版できる機会だって広がっていただろうって。でも先生は、裁縫と料理と言葉遣いだけを覚えたら、あとの勉強は男の人と話を合わせられるくらいの教養でいいなんて言うのよ」
 あのときの悔しかった気持ち。だが今、心の中を占拠している悔しさはそれより一回り大きい。
「あなたが荷物に入れた『江戸川乱歩全集』、読んだのよ。鬱屈うっくつした、独りよがりな、気持ちの悪い心情描写。やっぱりまったく好きになれなかった。でも同時に、これを書いた人は小説家にしかなれなかっただろうな、って思ったわ。もし男に生まれていたとしても、私には到底たどり着けなかった境地。そう、私は小説家にはなれなかった」
「何を言い出すんだ。平井さんに嫉妬しているのか?」
「あなたにもよ」
 興奮しつつ、夫の顔を指さす。