「今日、物置を整理していたんです。そうしたらこんなものが出てきたんです。説明してもらえますか?」
「はて。確かに見覚えがあるが、なんだっけな」
千畝は蓋を取り、「あー」と口を開けた。本が数冊と、スクラップブックが一冊。なつかしい気持ちで、一冊取り出した。
『D坂の殺人事件』だ。
「明智小五郎のデビュー作じゃないか」
ぱらぱらとめくりながらそんなことを口にすると、
「私への当てつけですか!」
幸子は目を吊り上げた。それで千畝は、なぜこんな箱に思い出を詰め込んでしまっておいたのか、ようやく思い出した。
「新聞連載の分までこんなに切り抜いて、あなた、小説なんて全然読まないって言ってたじゃないですか。それが、よりによって江戸川乱歩を……!」
スクラップブックを開き、幸子はまくしたてる。ロシア語の新聞の切り抜きだった。
「幸子、そのロシア語が読めるのか?」
「私は杉原千畝の妻ですよ。内容を理解するのは難しいけど、『エドガワ・ランポ』ぐらいは読めます」
この家にはソ連大使館の関係者もたまに訪れる。聞きなれないロシア語を理解しようと陰で努力していたのだなあと、千畝は場違いにも妻を見直した。
「いや、悪かった。実は江戸川乱歩さんは私の旧い知り合いなんだ。私は本名で平井太郎さんと呼ぶのだがね」
すると幸子はぽかんと口を開けた。千畝は平井太郎とのことを簡潔に話した。早稲田の三朝庵で出会い、外務省書記生の募集公告を見つけてくれたことや、浅草で居所を後に奥さんになる人と探し回ったことなど。
「怖い人かと思ったら、ずいぶん面白い人なのね」
幸子は疑う様子はなく、それどころか話の途中からくすくす笑いはじめた。
「でも、年賀状にはそんな名前はなかったわ」
「何年か前に、些細なことで仲たがいをしてしまって、それ以来、疎遠なんだよ」
「そうだったんですか……」
さっきまでの剣幕はどこへやら、幸子の目には今や、労りの色すら浮かんでいた。
「初めて会った日に君が平井さんの本を好んでいないことを知った。私も読み返すつもりはないが、やはり捨てられなかった。秘密にしておくつもりはなかったんだが、言いそびれていたんだ」
「それは、申し訳ないわ……私、あなたのご友人だなんて知らなくて、つい……」
「いいんだいいんだ。癖のある作風だというのは私にもわかる」
「そりゃもう、癖なんていう言葉が生易しく感じるくらいだわ。『屋根裏の散歩者』は読んだことあります? 屋根裏から隣人の生活を覗き見ようなんて陰気で不道徳な発想がどうして湧くのかしら。『押絵と旅する男』なんて胸の中がざわめきで満たされる悪夢のようだし、『蟲』なんてもう女の人を殺す場面が怖くて怖くて……」
「嫌いといいながらずいぶん憶えているね」
「忘れられないのよ。頭蓋骨の内側にへばりついているようよ」
だがそれがあの人の作品の魅力なのだろうな、と千畝は久しぶりに太郎の顔を思い出す。
「……とにかく、それならあなたが大事にしておくのは当然ね。ところで、あなたのほうも私に話があったんじゃないかしら」
「ああ、そうだった」
いつの間にか、暗鬱とした気持ちはどこかへ行ってしまっていた。
「ヘルシンキに赴任が決まったよ」
幸子は目をぱちぱちさせていたが、
「ヘルシンキと言うと、フィンランドですか」
「ああ、やはりソ連には入国させてもらえないそうだ。シベリア鉄道が使えないから、アメリカ経由で行くことになる。今月中には横浜を出港しなければならないが、一緒に来てくれるか?」
「はい、わかりました」
あまりにあっさりとした答え。とても強い女を妻にしたのだな、と千畝は思った。
(つづく)