猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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「昨晩、重光しげみつ駐ソビエト大使から、はやし銑十郎せんじゅうろう総理に電信が送られてきた。君の入国拒否に対するソ連の回答だ。君がハルビン時代に白系ロシア人と密接な関係を持っていたことを問題視している。もしモスクワに駐留させたら、重要機密を国外の反共組織に流すんじゃないかと危惧しているわけだね」
 差し出された書類を受け取り、目を通す。たしかにそういう内容のことが書かれていた。
「本当に、白系ロシア人と密にかかわっていたのか?」
「いえ、けっしてそんなことは」
「一昨年まで、ロシア人女性と結婚していたそうだが」
「クラウディアも関係ありません」
 次官は杉原の顔をまじまじと見ていたが、やがて、「そうだろうね」とつぶやいた。
「実はこれは公式ではないのだが、君のロシア語が問題なのだという話が私のもとに入っている」
 千畝はむっとした。
「私はロシア語には自信があります。ロシア人にも引けを取らない自負があります」
「それがいかんというのだ」
「はい?」
「外交官が諜報活動に関わっているのは今の世界情勢では当たり前のことだ。それでも外国なまりの発音だったら『傍受されているのを知っていながら偽の情報を流している』とわかる。ところがだ、君みたいにロシア語が流暢な人間がやってきたらどうなる? ロシア人と聞き分けられないロシア語でデマを通信されたら、向こうとしては混乱させられてしまうというわけだ」
 なんということだ…千畝は頭を殴られたような気になった。流暢なロシア語の能力が、却ってソ連への入国を妨げているというのだ。
「しかし今回のソ連側の主張は慣例に照らし合わせても無理がある。こちらも正式な抗議をするから、モスクワ行きはもう少し、待ってくれ」
 だが千畝はこのあと、半年も処遇を待たされた挙句、まったく思い描いてもいない運命に立たされることになるのだった。
 
 山手線の池袋駅に降り立つと、じとっとした空気が千畝の肌を包んだ。ソ連への入国を拒否されてから半年、真冬に日本を離れるはずが、いつの間にか八月の夏の盛りになっていた。
 先月、盧溝橋ろこうきょうで日中両軍が衝突した。
 中国と事実上の戦争状態に入り、国内の雰囲気も殺伐としはじめている。あちこちで憲兵が目を光らせているのはもちろん、子どもたちも軍歌を口ずさみ、まるで年中行事のように戦争ごっこを繰り広げている。
 戦争などまっぴらだ、と千畝は思う。軍事衝突を起こさずに話し合いで物事を解決するのが外交官の仕事だ。なんとか戦争拡大を防がなければ。そのためには沈黙の大国ソ連の動きを逐一探る必要がある。それなのに…。
 家に向かう足取りは重かった。幸子に辛いことを告白しなければならない。
「ただいま…」
 力なく言って家へ上がる。茶の間へ行くと、幸子が正座をして待っていた。弘樹は部屋の隅の布団ですやすやと眠っている。
「幸子。話さなければならないことがあるんだ」
「私もですっ!」
 キッと強い目で睨まれたので、千畝は思わず「おっ」とのけぞってしまった。結婚して以来、幸子のこんなに怖い顔は見たことがない。
「どうしたんだ、一体」
「そこへ座ってください」
「え…私は君に何かしたか」
「いいから!」
 ぺたりと座布団の上に腰を下ろした。幸子は「よいしょっ」と言いながら、下に置いてあった何かを座卓に上げた。蓋つきの木箱―見覚えがある。