第六話 ヨーロッパへ【3】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

幸子と結婚した千畝は、堪能なロシア語を生かせるソ連勤務が実現する。極東のペトロパブロフスクを皮切りに、本格的活躍なるか。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

 

     三、

 十二月二十六日。千畝ちうねは正式に、モスクワの日本大使館への赴任を命じられた。
「やっと、やっとだ!」
 辞令書を胸に抱き、千畝は心の底からの歓喜に身を浸す。思い出すのは初めてハルビンの地を踏んだ十九歳の秋。書籍で勉強したロシア語では何も話が通じないことに愕然とし、学校だけの勉強では満足できず、新聞を拾い読みし、ロシア人の中に入り込み、片っ端から生きたロシア語を身に着けた。それもこれも、すべてモスクワ勤務のためだ。
「ああ、私は外交官になれたんだなあ」
 夕食のときにそう言うと、「変な人」と幸子ゆきこが笑った。
「あなた、ずっと外交官だったんでしょう」
「そうだが、北満鉄道交渉の大仕事のときよりもずっと、今のほうが外交官をしている気がするよ」
 千畝の脳裏には、松岡まつおか洋右ようすけの顔があった。尊敬するあの人の望む場所にやっと立てるのだという使命感が幸福感を膨らませるのだった。
「出発はいつでしたっけ?」
「二月の上旬だ。ウラジオストックにわたり、シベリア鉄道に乗る。体のほうは大丈夫そうかい?」
「ええ。弘樹ひろきを産む前は不安でしょうがなかったけど、私、意外と丈夫だったみたい」
 知性の端々に垣間見せるこのあっけらかんとした幸子の性格も、千畝にはとても合っていた。
 だが―ことはそう簡単には進まなかった。昭和十二(一九三七)年が明け、一月の下旬になっても、ソ連から千畝にビザが下りなかったのだ。
「ペルソナ・ノン・グラータなんて…」
 上司の斎藤さいとうは眉をひそめ、千畝に言った。ペルソナ・ノン・グラータというのは、ラテン語で「好ましからざる人物」という意味の外交用語であり、「あなたは我が国に駐在する外交官としてふさわしくない」という通告のようなものである。かなり強硬的な手法であって、通常は、革命家など入国させれば著しい混乱を引き起こす要注意人物を対象とするものだった。
「重要人物でもない単なる役人に対して出されるなんて、聞いたことがないよ」
 斎藤は千畝の顔をまじまじと見つめる。
「ハルビンで反共活動をしていたわけじゃないだろう?」
「していません」
 千畝はきっぱりと言う。思い当たることがあるとすれば…。
「北満鉄道のことを根に持っているのでしょうか」
「いや、あれだって正当な外交活動の範疇だ。現に君は、最近ペトロパブロフスクに赴任したときには何も言われなかったじゃないか」
「はい」
「一度国内に入れた人間に、ペルソナ・ノン・グラータをつきつけるなど、不可解極まる」
 モスクワには入れたくないということだろうか、と千畝は考えた。
「とにかく、上は正式にソ連に抗議すると言っているよ。悪いが、出発はもう少し後になると思っていてくれ」
 さすがの斎藤も千畝に同情的になっていた。
 外務次官から直々に話があるそうだ―斎藤からそう告げられたのは、二月の中旬になってからだった。執務室へ入ると、黒々としたひげを蓄えた外務次官が待ち受けていた。