「杉原さんのか」
 仰ぎ見ると、編集長。越場こしばさん。煙草吸いに行ってたんですね。少し香ってきます。煙草の煙の匂い。そして眼鏡が少し汚れています。拭いた方がいいですよ。
「そうです」
「俺も読みたい」
「データでいいです?」
 うん、って頷きながら、自分の机に向かっていく足が止まった。
「そういや、やよいちゃん」
「はい?」
「誕生日、明後日だな」
 ニヤッと笑う。私もつい微笑み返ししてしまった。ちゃんと覚えているんですね。自分と一日違いだった、私の一人娘の誕生日。
 私が妊娠した頃、産休も育休もあったものの、復帰してもお前の場所はもうないよとばかりに望まぬところに回されたりすることもあった。それを、休暇に入るのを快く送り出してくれたのも、そして休暇を終えたときには編集長になっていて、きちんと元の現場に戻してくださったのも越場さんでしたね。
 やよいが生まれたときには赤ちゃんグッズをAmazonからたくさん送ってくれたのも。離婚を決めたときにさりげなくご飯に誘ってくれて、経験者としていろいろアドバイスをくれたのも。
「そうです。越場さんも明日お誕生日ですね」
「プレゼントは特にいらないぞ」
「あげませんよ」
 でも、五十二回目のお誕生日おめでとうございますって言うぐらいはします。心の中でだけかもしれませんけど。
 そして、もしも、たまたま、明日一緒にお昼ご飯食べたり、遅くなって晩ご飯でも食べることになったのなら、デザートの一品くらいプレゼントしたりするかもしれませんけれど。
 そういう気持ちが、私の中にあるのに気づいたのも、去年の越場さんの誕生日でした。たまたま、お昼ご飯を一緒に食べたときでした。
「送りました。何か気になることがあったら、早めにお願いします」
「おう」
(さて)
 杉原さんの原稿をざっと読む時間は、まだあるよね。まずは読んでこちらでちゃんと校正してからだ。
 4:00 P.M.
 机の上の時計のその表示が目に入って、あぁそろそろやよいが帰ってくる頃かな、と思った瞬間に頭に浮かんできた。
(服!)
 明日、授業参観にやよいが着ていく服を、この組み合わせでいいよね、っていうのを朝に出しておくのを忘れていた。そうだ、出しておかなきゃと思っていたのに自分も遅れそうで慌てて出てきてしまった。
「えーと」
 今日、絶対に遅くなるよね。
 野宮のみや先生の原稿が校閲部から上がってくるのはこの後たぶん五時過ぎだろうから、持って帰る?
 ダメだ。村本むらもとさんは遅くとも八時には帰っちゃうから、それまでに一緒に読み合わせしてチェックが入ったところを確認していかなきゃならない。
 六百枚の原稿、全部チェックするにはどんなに急いでも二時間は掛かるよね。そもそもそこを急いじゃダメだし。ろくなことにならないから。
 ってことは、やっぱり八時ぐらい。
 そのまま後の作業を会社でやらないと、明日の朝、野宮先生へ発送するには間に合わない。ご飯は適当に何かを買ってきて食べるとしても、やよいが寝る九時前には帰れないか。
 うん、帰れないね間違いなく。あの子は絶対気にして眠れなくなるかもしれないし、出しとくって言ってたのに! って怒るだろうし。
 今のうちに電話しておこうか。読み合わせを始めたら電話なんかできなくなるし、また忘れちゃうかもしれない。
 伝えておいてもらおう。

(つづく)
※次回の更新は、3月7日(木)の予定です。