食べると死ぬ花

食べると死ぬ花

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 倉本さんに押し倒され、体を這い上られている。その事実を認識しても、信じたくない。
 まとめてある髪がほつれ、顔に張り付く。ずっと好きだった人は、今、怨霊のような姿で僕に迫っている。
「さんざん良くしてやったでしょ⁉ 歯の一本くらい、くれよ!」
「落ち着いて、倉本さん!」
 女性とは思えない力だった。彼女は僕の口に手を突っ込んで来ようとしている。左手は完全に彼女の胴体で押さえ込まれていた。体重の軽い女性でも、簡単に引き剥がせない。それに、思い切り力を入れたら、彼女の体に深刻な障害が残ってしまうかもしれない。
「助けてくれ!」
 僕は麗美に助けを求めた。今すぐ麗美がこのおまじないをやめると言ってくれればそれで終わりなのだ。
「麗美、助けてくれ!」
「なんでぇ?」
 視界の端に麗美が映る。麗美は床に座って、つまらなそうに自分の爪を見ていた。
「お姉さんがやめたいなら止めるけどさぁ」
「歯くらいちょうだいって言ってるだろっ」
 倉本さんの手が目に向かって伸びて来る。目を瞑った。瞼の上からぐりぐりと押される。
 歯、歯、歯。倉本さんはずっと同じ言葉を繰り返す。
「いい加減にしろっ」
 全力で体を起こす。仕方なかった。そうでもしないと殺される。
 小さな悲鳴が聞こえて、体が軽くなった。
 恐る恐る目を開ける。倉本さんを突き飛ばしてしまったのだと思って。倉本さんにかけよるつもりだった。
「えっ」
 倉本さんは、目を見開いたまま立ち竦んでいる。目だけではない。口もだ。
「なんで…」
 口腔は空っぽだった。真っ暗で、何も見えない。歯が、一本もない。
 おかしい。さっきまではあった。入れ歯だったけれど、きちんと倉本さん自身の歯も存在していた。そもそも、入れ歯も消えている。
 突然、倉本さんがくずおれた。
「倉本さんっ」
 倉本さんを仰向けにする。目を瞑っている。息はしているけれど、寝ているのとは違う。
「あーあ、倉本さんは失敗しちゃったみたいだねぇ」
「失敗って…」
「んー。私がやったんじゃないよ。倉本さんが失敗しちゃったのぉ。残念だねぇ」
「そんな」
「ごちゃごちゃ言うより、やることがあるんじゃないのぉ? 私は子供だから、できないよぉ」
 そう言われてハッとする。僕にできることはある。
 屋上の入り口に、公衆電話があったはずだ。倉本さんを置いてそこに走って行き、救急車を呼ぶ。僕の声は震えている。
 すぐに倉本さんのところに戻ると、麗美は倉本さんの方を見もせずに、僕に向かって笑いかけた。
「笑ってる場合じゃないだろ」
「んー。じゃあどんな顔をすればいい? 私の顔で、倉本さんが良くなるのぉ?」
 僕はもう文句を言うのはやめようと思った。何か言い返されて腹が立つだけだ。
 倉本さんの上体だけ起こして、自分の体にもたれかからせる。ぴくりとも動かない。体がずしりと重かった。
「ね、おまわりさん」
「何もしないなら帰ったらどうだ」
 麗美はぷうっと頬を膨らませる。
「そんなこと言わないでよぉ。まだ失敗してないおまわりさんにはぁ、はぁい、プレゼント!」
「いま、そんな場合じゃないだろ!」
 強い口調で言っても、麗美はざらざらとした手触りのきんちゃく袋を押し付けてくる。
 サイレンの音が近づいてくる。
「もう救急車来るから、おまわりさんにできることはないでしょぉ。それより、開けてみてよぉ」
 黒々とした瞳にじっと見つめられる。僕は仕方なく、袋を開いた。
「わあっ」
 声を上げて放り出す。
 それは紛れもなく、歯だった。二十本、大小さまざまな歯が並んでいる。
「こ、こんなもの」
「それ、倉本さんの歯。好きに使ってねぇ!」
 きゃはは、と笑いながら麗美は矢のような速度で走り去って行く。倉本さんを膝に抱きかかえている今、追うこともできない。
「倉本さん、大丈夫だからね」
 心にもない言葉が喉から出る。
「倉本さん、心配ないからね」

(つづく)
※第四回は、明日8月12日(月)正午公開予定です。