第四回 ウソの天才、もしくは、

デンタタ

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前回のあらすじ

「んー。足りないんだよねぇ」麗美がつぶやくと、倉本さんは目を見開き、唇を震わせ僕に襲いかかってきた——。「小説新潮」2024年8月号掲載「噛み砕くもの」と対を成す恐怖譚。

Photo/Tatsuro Hirose
Photo/Tatsuro Hirose

 近所に住む板橋邦子さんは家族以外だと一番話したことのある女性だ。おそらくはもう還暦を過ぎているが、僕が小学生だったときと全く容姿が変わっていないように思う。ずっと「おばちゃん」なのだ。白髪交じりの黒髪を一つに束ねていて、Tシャツとゆったりしたズボンを着て、色物のカーディガンを羽織っている。夏だとカーディガンがなくなって、冬だとカーディガンがコートに変わるくらいの変化しかない。
 挨拶をきちんとしてくれるし、たまにお菓子をくれる。それは、僕が二十を超えても変わらなかった。
 そんな板橋さんは今日、僕に近寄ってきて、「大変だったねあんたも」と声をかけてくれた。板橋さんは挨拶や世間話はしてくれるが、わざわざこうやって踏み込んだりしてくる人ではなかったから、少し驚いた。
「えっと、その…」
「付きまとわれてただろ?」
「付きまとわれてないですよ、倉本さんとは、その、ちょっとだけ、付き合ってて…」
 情報がすぐ回る。倉本さんはあのあと救急車で運ばれて行った。次の日、お見舞いに行こうとしても運ばれた病院にはいない。タウンページを探して、倉本さんのアパートに電話をしたら、お母さんが出た。別の病院に移った、と聞かされて、ではその病院を教えてくださいと頼むと、「もう関わらないで下さい。お元気で」と言われて切られてしまい、その後つながることはなかった。
 直接アパートに行って呼び鈴を鳴らしても誰も出ない。何度か時間を変えて訪問しても、誰も帰っている様子はない。扉に付いている郵便受けから、大量のチラシがはみ出していた。
 僕にとってはおおごとだし、今でも倉本さんがどうしているか知りたいし、これからも探すつもりだけれど——僕が襲われたことなんて直接見た人以外知る由もないのだから、言ってしまえば女性が倒れて運ばれたというだけの話だ。こんなありふれたことでも、すぐに町中に広がってしまう。そういうところが僕はやはり少し嫌だった。
 もし倉本さんの願いが叶って、本当に子供が返ってきたら、東京で三人で暮らそうと思っていた。僕たちのことを誰も気にしない東京で。願いは叶わなかったけれど、倉本さんだけでも元気に回復してくれたら、二人で東京で暮らしたい。そして、ゆくゆくは子供だって欲しい。
「倉本のお嬢さんの話じゃないよ。原西のところのクソガキだよ。何もしてあげられなくて悪かったね。でもさ、あたしも、あのガキに関わりたくなかったからね」
 声をかけられて顔を上げる。板橋さんは真剣な眼差しでこちらを見ている。
「ああ、麗美ちゃんのことですよね。でも、あの子は…」
「本当に胸糞悪いね」
 板橋さんは小石を蹴飛ばして言った。
「あのガキ、前もやったんだよ。靭帯を切ってサッカーが続けられなくなった子供に、願い事だのなんだのって言って、騙して、誘い出して」
 はあ、と板橋さんは溜息を吐く。
「あ、あの、その子って…」
「もちろん、治らないよ! 治るわけないだろ。それで、治らなかったとき、失敗したからだって言うんだよ。だから悪質なんだ。そんなわけもないのに、希望を持たせてから、どん底に突き落とす。できるはずのないことをさせて、結局できないと、失敗したのなんのと罪悪感を持たせる。全部インチキのくせにね」
 驚いた。板橋さんは、麗美のやっているおまじないのことも把握しているのだ。それに、この口ぶりだと、麗美は他の人にもおまじないを持ちかけたことがあるようだ。