第二回 次の試練

デンタタ

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前回のあらすじ

最初の「試練」をクリアした僕。次は片思い中の彼女に声を掛けるだけなのだが…。「小説新潮」2024年8月号掲載「噛み砕くもの」と対を成す恐怖譚。

Photo/Tatsuro Hirose
Photo/Tatsuro Hirose

 次の日も麗美はショッピングモールに来た。そして、昨日と同じように一緒にエレベーターに乗って屋上まで上がる。
 麗美は昨日と違って全く無言で、貯水槽をじっと見つめた。僕も同じように見る。名前は、きちんと残っていた。
「んー。相性はいいってことねぇ」
 よく考えれば当たり前だ。昨日から僕と麗美以外誰も屋上に立ち入ってはいないのだから、名前は消えていないに決まっている。それなのに、僕は少し嬉しかった。倉本さんとの仲を認められているような気分になったのだ。
「次の試練はねぇ、倉本さんに声をかけることぉ」
 麗美は僕と目を合わせることはなく、前を向いたまま言った。
「えっ」
「えっ、じゃないでしょぉ。声をかけるのぉ。カンタンでしょ」
「で、でも、何年も話してないし…」
 麗美はぷっと吹き出した。顔がかあっと熱くなる。
「笑うことないだろ」
「ごめぇん、でも、そんなに難しいなら、ぅあーちぅふでぅ様にお願いするぅ?」
 麗美はこちらをじっと見つめる。この黒々とした瞳で見据えられると、体が言うことを聞かなくなって、顔を逸らすことができなくなる。
「その場合、歯が必要になるけどねぇ」
 じゃらじゃらと幻聴が聞こえた。どうせ本物の歯ではない。ナントカ様も、子供の空想だ。だが、それが分かっていても、気分が悪くなる。
 僕は首を横に振って、
「いや、自分の力で、頑張る…」
 麗美はふふ、と軽く笑った。
「んー。女の子に話しかけるのって、男の子が考えるよりずっとずっと、カンタンだと思うけどなぁ」
 自分が「男の子」扱いされたと考えればいいのか、小学生女子にとっては全人類は「男の子」と「女の子」なのか。どちらにせよ、僕は、小学生のときでも、女の子に突然話しかけるのは勇気がいった。
「難しいよ…」
 僕が小さな声で呟くと、麗美は「一石二鳥の言葉もあるよぉ」などと言う。
「カンタンだよ。倉本さんに『歯ちょうだい』って言えばいいだけ」
「そんなことできるわけないだろ」
「まあ、おまわりさんには難しいよねぇ」
 麗美はふふんと鼻を鳴らす。無性に腹が立ったが、やはり言い返すことはしない。
「でもさ、声かけないと、ずっとそのままだよ? 倉本さんのこと、好きなんだよね」
 僕が言い淀んでいると、麗美はわざとらしい笑みを浮かべて、
「大丈夫。声をかけるだけ。名前、消えてなかったでしょぉ? 相性がいいんだってぇ」
 それを信じたわけではない。小学生の女の子のおまじないなんて、断じて。
 ただ、麗美の言葉は、子供らしい、なんのてらいもない正論だと思った。
 好きなら声をかけるべきだ。何もしないと始まらない。
 次の日はちょうど休みだった。いつもより少し遅く家を出て、自転車を漕ぐ。とりあえず行動を始めてしまったものの、何を話せばいいかはいまいち思いつかない。そもそも、倉本さんに話す意思があるなら、コンビニで買い物をするとき既に話しかけられているはずだ。同級生だったよね、というようなことでも。しかし、倉本さんにも色々あって、おそらくは僕と同じように過去の知り合いになど会いたくもないのだとしたら、声をかけた瞬間に嫌われてしまう可能性がある。しかしやはり、話しかけないと何も始まらないわけだから——。
 無意味な思考を繰り返しているうちに、コンビニに到着してしまう。
 倉本さんは朝に勤務しているから、昼休憩があるだろう。直前に声をかけて、昼休憩で一緒にご飯を食べて、という安易な計画を空想していた。深呼吸をしてから入店する。
「馬鹿野郎!」
 突然の大声に体がびくりと震えた。
「だから何度も言ってんだろ、金返せって!」
「すみません、でも、商品と、レシートがないと…」
「俺を疑うのか!」
 レジの前で、トレーナーとトランクスしか着ていない脂ぎった中年のオヤジが怒鳴り散らしている。
「賞味期限が切れてたんだよ! 俺が腹壊したのが証拠だろ!」
「すみません、でも…」
 怒鳴られているのはまぎれもなく、倉本さんだった。元々下がった眉がさらに下がっていて、顔色が青白い。
「でもじゃねえよ、てめえ、馬鹿にしてんのか!」
 オヤジは口角から唾を飛ばして怒鳴り続けている。大きな怒声が耳に響いて、僕はもう、このまま帰ってしまおうかと思った。オヤジは太ってはいるが、身長はやや低いくらいだ。殴られても、致命的なケガをすることはなさそうだ。それに、店長などの責任者が出てきて、なんとか解決してくれるだろう。
「聞いてんのかブス!」
「あ…すみません…」
 腹が立った。倉本さんはブスではない。化粧っけはないが、顔立ちは整っているし、笑うと目が垂れる様子は心が和む。
 オヤジは怒っているように見えて、口元には粘着質な笑みが張り付いている。
 こういうオヤジはよくいる。若い女の子にイチャモンをつけて困らせるのが楽しい、変態だ。
「あの!」
 声を上げて一歩前に踏み出す。
「あん? なんだてめえ」
 オヤジがこちらに顔を向ける。どぶ川のような嫌な臭いがした。
 攻撃的に剥きだされた歯が少し恐ろしい。でも。
 視線を倉本さんに向ける。彼女は下唇を震わせている。
「警察、よ、呼びましたから!」
「ああ⁉」
「警察! 来ます!」
 声が震える。しかし、僕の情けない声が、真に迫っていると受け取られたのかもしれない。オヤジは舌打ちして、小走りで店を出て行った。