透明になれなかった僕たちのために

透明になれなかった僕たちのために

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 もし、小説家になりたいとか、そういう動機だけだったら、今も続けていられないかもしれない。それに、自分の好きな小説を書きたいという動機でも、あくまでも僕の場合はということですが、もう、面倒くさくなってやめてしまっていたかもしれない。小説を書くのが好きというだけでは、書くことを僕は続けられなかったでしょう。だから、僕にとっては、自分の不幸や挫折体験も、今の自分に繋がっていて、それなしでは考えられない。自分に欠かせない体験だったと思っています。
 と、まあ、そうしたわけで、僕は小説を書き始めます。それは僕にとっては少し寂しい決断だったような気もします。というのは、小説家を目指す、ということがきっかけで、僕とあなたの間に心の距離が出来ていったような気がするからです。
 あの頃、どんな大人になって欲しいかと尋ねると、あなたは冗談半分だったとは思うのですが、大学を卒業して家の近所の市役所に就職して地元で勤務しながら早く結婚して子供を作って孫の顔を見せて欲しいと言っていました。
 僕も、あなたの願望を叶えてあげたいような気もしていました。別にその通りの人生を歩むということではなくても、ニュアンスをくみ取って、もう少しそばにいて、安定した生活を手にし、家庭を営み、素朴な幸福感をあなたに与えるような人間になりたかった。それは小説家を目指すということと両立するかというと、僕にとっては難しい問題でした。
 作家を目指すと一口に言っても、現実には様々な形態があります。専業作家なのか兼業作家なのか、アマチュアとして小説を書くのか。僕は専業作家になりたかった。自分の人としてのタイプが、他に仕事を持ちながら小説を書くのに向いていなさそうだと感じていたためです。
 専業作家を本当に目指すとなると、まず何よりも生活の難易度が急上昇します。どう計算しても、お金が足りなさそうなのです。
 僕は男性として生まれ育ちました。性役割として稼得能力を期待されることが一般的である一方で、専業作家という生き方は生涯年収の期待値が低い。
 あなたと父が僕に期待していたのは、大学卒業後に公務員や正社員として働きつつ、主に自分の収入を元に家族を養うような生き方です。あの頃、「作家なんて生き方でどうやって家族を養うんだ?」と父によく怒られました。僕には返す言葉がありませんでした。どうやっても家族なんて養えるわけがないだろうと思っていました。なので「家族はいらないし、まともに生活出来なくてもいいし、いずれ野垂れ死んでもいいんだ」と僕は言っていたような気がします。あなたはいつも呆れて、がっかりしたような顔をしていました。
 それから、もう一つ。作家というのは家族観について一定の倫理性が求められるところがあると個人的に考えています。そしてそれは「とりつくろう」程度で解決出来ることでもなく、「内面化」することが必要になる。あなたに「家族ってこういうものよね」と言われて、素朴に同意することは難しくなっていきました。元々そうしたことに「理解のある親」ならともかく、現実には親世代と論理的に価値観をすりあわせてわかりあうことは難しいような気もします。僕は、パートナーが仕事を辞めて家に入ることが当たり前だとも、男性が主にお金を稼いで家族を養うべきだとも考えていません。常々僕の考えは伝えていますが、押しつけたいという気持ちも、あなたの生き方や考え方を否定したいという気持ちもありません。あなたにはあなたの人生や生活があり、尊重したいと思っています。
 いつも伝えているように、僕は、自分を産み育ててくれて「ありがとう」と思っているし、期待されたような大人になれなくて心のどこかで「ごめんなさい」と思っています。
 という感じで、作家の息子と昭和の母の間には、少しずつ心の距離というのが生まれていくわけです。

 そんな僕ですが、最近は、少し小説を書くことに飽きてきているようです。書くことに、うんざりしているみたいです。それを認めるのにも随分時間がかかりました。 僕が小説を書くことにうんざりしている最大の理由は、書くことで周囲の人をどこか不幸にしているなという感覚があるからです。

 自分が書いているものにあまり意義を感じられず、書いていく先に明るい未来が待っているという感じがしない。
 季節は初夏で少し蒸し暑いです。雨が続いたら憂鬱になりますが、日差しが明るい日がやってくると少し気持ちも上向きになり、そういう行ったり来たりの日々を暮らしています。
 今月はたくさん締め切りを破ってしまいました。もしかしたら僕は一生まともな大人にはなれないかもしれません。最近、困っています。

敬具

駄目な息子より

(つづく)
※この連載は、不定期連載です。