笑う森

笑う森

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 キャラ、関係ない。ふざけんじゃないよ。お前だってそういう男じゃないよ。でも、欠点には目をつぶって、いいところだけ数えようと思ってやり過ごしてきたのだ。こっちのほうが少し年上だし。三十過ぎてまで男で失敗はしたくなかった。この男で最後にしたかった。
 そのとき初めて包丁を握ったままだったことに気づいた。料理はまあまあ得意だなんて嘘をついちゃったけど、キッチンにはフルーツナイフしかなくて、一也を家に呼ぶ前に、料理上手っぽい魚用の包丁を買ったばかりだった。ヤナギバっていう俳優みたいな名前のその包丁で、生まれて初めてつくる肉じゃがのじゃがいもの皮を剥いていたのだった。
 勢いでヤナギバの切っ先を向けた。一也は薄笑いを浮かべただけだった。
「やめろし。危ねえじゃん」
 唇は笑ったかたちになっていたが、目は笑っていない。すいっと細めた目にはワニみたいに膜が張って見えた。女を殴ろうとしている目だと思った。前の前の男もそうだったから。十八でできた最初の男も。
 こいつも殴ってくる。そう思ったとたん、体が動いてしまった。腕を前に突き出してしまったのだ。殺す気なんかなかった。防御のつもりだったのだ。腹が立っていたのは確かだけど、それより男に暴力をふるわれるのが怖かっただけなのだ。ほんとうです、裁判長。
 ガリガリなのに腹筋のないぶよぶよの脇腹にヤナギバがめりこんだ。キャベツを二つに切った時のような音がした。一也も初めは意識があって「てめえ、ぶっころす」とかわめいていた。最初は手当てをしようと思って、包帯を探したんです。でもなくて。119に電話しようと思って、1、1までは押したんです。でも手が震えすぎて、どうしても押せなくて―9だけが。
 そのうちフローリングにどんどん血が広がって、一也が喋らなくなったと思ったら、ごふっと血を吐いて、動かなくなって。美那もへなへなと尻座りをしたまま動けなくなってしまった。頭の中は真っ白だった。吹雪みたいに。美那の故郷は南の島だから見たことはないのだけれど。最初に考えたのは、パトカーに乗せられる時に着る、きちんと顔が隠れるフード付きのよそゆきがあったっけ、ということだった。
 お尻を床に滑らせて、手だけで白目を剥いた一也の顔が見えない場所へ逃げ、メルカリを検索した。こんなことをしている場合じゃないと気づいて、殺人罪で何年刑務所に入るのかを検索した。「二人殺したら死刑」だそうだ。一人だと、半分? 死刑の半分って、何? スマホを放り出して、ひたすら泣いた。涙が涸れてから、床の血を拭いた。いままでのどんな掃除の時よりていねいに。

 台車をまともに進ませる方法がようやくわかった。コツは死体の載せ方だ。重心が傾かないようにバランスよく載せる。布団袋の中のコサックダンスの足を、前方じゃなくてハンドルにもたせかけ、空に向かって高く上げるポーズにするのがいちばんすわりがいい。おかげで、勾配が下りになったせいもあって、なんとか道行く車のライトが見えなくなる場所まで分け入った。
 ふう。少し休憩。懐中電灯をくわえていた顎が限界。差し歯が抜へそふ。懐中電灯を吐き出し、大きく深呼吸をして、台車のハンドルに体を預ける。
 目が慣れたのか、雲に隠れていた満月が頭上の梢の向こうに戻ったからか、懐中電灯がなくても闇と木立のシルエットの区別がつくようになってきた。闇の中に白くぼんやり浮かんだ布団袋を眺めているうちにふいに、真っ暗すぎてどこかへ消し飛んでいた恐怖心が蘇ってきた。自分の犯した罪への怯えというより、誰もいない真夜中の森の中で死体と二人っきりであることへの恐怖だ。
 この袋、いま動かなかった? いまにも袋がやぶけて中からにょこっと手が突き出してくる
 手ならまだいい、血まみれの顔が現れて美那を見据えてにたりと笑う―そんな光景を想像してしまって、もたれかかっていた台車から飛びのいた。全部放り出してここから逃げ出したくなった。だめだだめだ。いつもそうだ、私。逃げてばかり。逃げちゃだめだ。ここで逃げたら、私の物語にエンドロールが出てしまう。
 恐怖を振り払うために、美那は歌をうたった。森の中だから、この歌だ。


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